ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー


オコエダナイ・グリラ)はなぜヴィブラニウムがワカンダにしかないと思っているんだろう、そんなこと分からないのではと考えていたら、「鉱山の伝説が…」とのセリフから国による伝統教育がなされているのだと判明する(どんな物語なんだろう?)。そのしょんぼりとも取れる口ぶりはちょっとした可笑しみを感じられるように演出されており、シュリ(レティーシャ・ライト)も突っ込みを入れてくれるし笑ってもいいのだと思う。尤もこうした場面はオコエというより主人公であるシュリの伝統から自由な人となりを表しているのであった。

そういうものは多いが本作も異なる世代の色んな女が出てくるごとに面白さが増す類の映画ではあった。シュリのラボでの母ラモンダ(アンジェラ・バセット)とのジェネレーションギャップに始まってオコエとのやりとり、シュリが作中では一番下の世代かと思いきやMITの学生で19歳のリリ(ドミニク・ソーン)が出てきてえっ、「子ども?」(彼女がシュリに「ワカンダではそんなことないだろうけど…」とアメリカでの黒人女性の境遇をさらりと語る場面がよい)。しかし女が女を助けたり頼ったりするのを見ていると、映画の外と繋がっている、「気高すぎた」ティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の死をどう捉えていいか少々混乱させられてしまった。

ともあれオコエ、シュリ、リリの三人が三者三様の乗り物でボストンを駆けるくだりが私には一番面白かった。ワカンダとはそうすることでしか生き残れない在りようであり、そこから出てきて暴れまわる姿に解放感を覚えるのも当然かもしれない。そう考えていたらもう一つの「ワカンダ」たるタロカン帝国が登場する。抑圧される者(国)同士が結束できないというテーマは実にたくさんの物語で描かれており前作『ブラックパンサー』だってそうだったものだけど、見ながらなぜか『ビール・ストリートの恋人たち』を思い出していた(あれはうまくそのことを浮かび上がらせていたから…かな)。

冒頭のティ・チャラの国葬の場面では「皆」が悼みたいと願っているからこんなふうにしているんだろうな、でも参加したくない、あるいは反対している人もいるんだろうな、後の国連総会の場面でも他の多数の国と異なりラモンダは「女王」なんだな、といったことが私にはどうしても異様に感じられ、なぜ王政なのかと思うも、物語が進むにつれ、いわば上にいる者ほど愛する者を失っているのだと分かる(作中最も「感情」を爆発させるのは他ならぬラモンダである)。しかし戦争でまず失われるのは民の命であり、これはそのことをリーダーが思い知る話だったので、私としては何となく振り出しに戻った感があり終わった。

奈落のマイホーム


コメディに始まるが主題が展開するにつれシリアスになっていく韓国映画というのは結構あり、作り手の心情は分かるもののいまいち釈然としないことも多いけど、本作が本格的に笑わせにくる(演出が明らかにそうなる)のはアパートがシンクホールに落ちてから。このディザスターコメディぶりが上手くいっており、まだこんな「見たことない」スタイルの映画があるんだと面白かった。

世界各地で発生しているシンクホールの恐怖に加え、例えばドラマ『ブラックドッグ』(2019)の主人公は非正規だから結婚できないと言っていたものだけど、こちらでは賃貸ワンルームだから好きな人に告白すらできない、家が買えないうちにも(作中の「現在」では)不動産価格が日々値上がりしている、会社のインターンは社員と同列に扱われない、高校生が目的もなくただただ節約してお金を貯めている、といった韓国の諸問題が並走している。

舞台も時代も違う『ミナリ』にも「家長の椅子」が存在していたものだけど、本作の主人公ドンウォン(キム・ソンギュン)も地方から出てきて職場から遠い賃貸住宅で11年辛抱したのちローンで手に入れた家にまず自分の椅子をしつらえる。キム代理(イ・グァンス)が集めた金を受け取って自分で買うが妻のヨンイ(クォン・ソヒョン)には贈られたことにし、息子も座らせず彼女に「そこに寝てれば、一生」と呆れられる。しかし引っ越し祝いで酔ったインターンのウンジュ(キム・ヘジュン)に座られても何も言えない。

そんなドンウォンがその椅子をまさに投げうってマンス(チャ・スンウォン)を救う。冒頭「おれは悪くない、お前こそ謝れ」と言い合って(しかし息子に指摘されるとこれは喧嘩じゃないと言い張って)出会った二人である。その後の「穴があいてむしろよかった、息子の寝顔を久々に見た」「ほかの家族が本当に心配で」といったやりとりに表れている二人の変化が本作の大きな柱と言えよう。そうしたことを描くためか「家」に残るのは男ばかり、女がほぼいないのは見ていてやはりつまらないけれど。

(以下「ネタバレ」しています)

ドンウォンの息子への「ママの待ってる『家』へ帰ろう」から、写真からして結婚したらしきとある二人がバンで移動生活をしているという「オチ」まで、愛する人がいるところこそ「家」なのだというところに話が落ち着くのには、そうはいっても家を手にする選択肢は欲しいよなと思ってしまった。

パラレル・マザーズ


上映前に(1960年代のフランスで意図せぬ妊娠に見舞われた大学生を描く)『あのこと』の予告が流れた。映画の題材として何かを扱う時に色々な形のそれがあった方がいいというのは私にはつまるところ今現在それをどう扱うべきかという問題なので、この映画は妊娠をどう描くのかと見始めたら、これは妊娠の話というわけではなかった、悪い意味じゃなく。
とはいえ未だ珍しい「女が男を撮る」場面に始まり、何の話だったっけと思っているとジャニス(ペネロペ・クルス)が妊娠する。妊娠ってそういうものだということが描かれている。アルトゥロ(イスラエル・エレハルデ)とのやりとり「君との子どもは持ちたいけど、いつにすべきなのか」「いつも何も、今妊娠してる」(これは後のある場面でのジャニスの「(とある死を)防げなかったの」に対応しているようでしていない、同じナンセンスな問いであっても)。

作中最も新しい生命であるセシリアを映すベビーモニターのモノクロ映像の古めかしくホラー然としていること。それは子を失う恐怖に真実から目をそらすジャニスの心情の反映であり、彼女がそれを打ち明けた後にアナ(ミレナ・スミット)が「私のお姫様」とセシリアに語り掛けるとき踏み込んだペダルのように少々遅れて頂点に達する。対して映画終盤の、フランコ政権に家族を奪われた老境の親族を訪ねる場面は陽が降り注ぎ、真実の力強い明るさに満ちている。DNA検査の描写も対照的だ。
私にはこれは、確固たる居場所を持つ…あるいは心にそれを定めている女、いや女達と、まだ若くそれがなく、子を持つことで居場所を持つようになる女の物語に思われた(だからジャニスがアナに料理を教える場面も面白い)。ただ「実子」において後者のそれが起こるというのは少々釈然としなかったけれども。

アナの母親役のアイタナ・サンチェス=ギヨンが病室に現れ、オーディション時に自身を『老嬢ドニャ・ロシータ』のロシータ役に提案したと話す場面に突如激しくアルモドバルを感じた、ロッシ・デ・パルマの顔を見た時よりも。振り返れば彼女こそがある意味、最も自分の居場所を持っていたのであり、ゆえにジャニスに好意を抱いたのではないかとふと考えた。

冬の旅


学生時代から四半世紀以上ぶりに初めてスクリーンで見て、やっぱりヴァルダってすごいな、いいなと思ったので感想を少し書いておく。オープニング、不吉なパイプのこちら側に歪んだ格好で倒れて死んでいるモナ(サンドリーヌ・ボネール)の体にしばらく誰も触れず、その服のシミにつき「ワイン祭りに参加したんだろう」と語る。建物などについた同じ由来のシミを洗い流すカットが数回挿入されるのをいかにもヴァルダだと見ていると、映画の終わり、こんな怖い祭りだったのかと戦慄させられる(あれはモナの主観でなくても、はっきりと、怖いだろう)。

「モナが死んだと知らない人々が彼女のことを話してくれた」とのナレーションにまず続く、彼女に遭遇した男達の、いい女だから見ていくかという会話や汚いなりだけど顔は可愛かったという証言に、誰かについて話すこと自体が暴力なのだとより強く確認させられる(あれらを聞いた時の身震いするような、尊厳が削られる感じ、陳腐な言い方だけど男性には分かるだろうか)。更にその姿をドキュメンタリーふうにカメラが撮り私達が見ることにより、他者を語る権力と他者を撮る権力が拮抗し、この世に色々な力が働いていることが浮かび上がってくる。その中心にあるのが、そうした力の作用の数々から逃れるために、私達の代わりに戸外を歩き続けるモナなのだ。

尤も作中のモナがゆくのは、語る・撮るとは別の次元の権力差の中。井戸での水の出し方を教えた女性は「あの娘のように自由になりたい」と願い、ヨランド・モロー演じる家政婦ヨランドは男と並んで眠る彼女に自身と恋人との関係を顧みて羨ましがる。そこには生きるためには男といなければならないが主導権は握れない、付属物でいるしかない女の夢が投影されている。男達はモナをかくあるべしと思う女の姿と比べて意見し評する。ちなみに『ワンダ』(1970年バーバラ・ローデン)は私には自分が寝ている内に他の人達が何かをしているということに対する不安を描いた話に思われたものだけど、こちらでは就寝中のモナの近くへやって来た男が大きな音をたてて起こす場面が二度あり、そもそも男は女を寝かせておきたくないのだと思わせる(だから安心して寝るもんじゃないよ、と言っていたのが『ワンダ』というわけ)。

犯罪都市 THE ROUNDUP


冒頭、遠く逃げ込んだ異国の空き地にとめたバンに同胞を誘い込んで殺すカン・ヘサン(ソン・ソック)と、ソウルの路地で群集に写真を撮られながら立てこもり犯を捕まえ新聞にまで載るマ・ソクト(マ・ドンソク)、闇と光の対比。韓国の警察が韓国人を助けなくてどうすると追放されそうになるもベトナムに粘っていたところ、金に執着するカンが母国に戻りソクトのいわば縄張りで二人は対峙することになる。巣から明るいところへ引っ張り出された動物のようなカンが、交差点で声をかけてきた警官を一撃して群衆に怒鳴る場面が白眉。

ソン・ソックは『サバイバー 60日間の大統領』でのバスケに『私の解放日誌』の幅跳びと、長いドラマにおいて一度だけ驚きの身体能力を見せるキャラクターを演じてうちらを魅了してきたのが、本作でのほぼ最初のアクションシーンである対・殺し屋との集団戦の長丁場はその印象を塗り替えるのに十分。程なく同じ場所でのマ・ドンソクとの対戦、最後のバスでの一戦もよい。バス内での戦闘なら昨年『シャン・チー テン・リングスの伝説』のばちばちに決まったのを見たものだけど、この映画の「自然に見える」戦闘には魅力がある。そもそも二人とも背丈はそう高くないのがいい、葬儀のエレベーターでのカンの技などそれが効いていた。

とはいえこの映画は私には、マ・ドンソクとソン・ソックの素…どの出演作を見ても受け取れる、本人から漏れ出ているんであろう要素をうまく活かしているように思われた。前述のバスでの一戦の直前にカン・ヘサンが窓の外を見やるあの顔などいい例。前作『犯罪都市』が全く響かなかったのに今作が楽しかったのは第一にそのため、第二に実録もののような犯罪描写のリアルな面白さゆえだろう(「カーチェイス」ではない車の使い方も却って新鮮)。オープニングからの、いわゆるイエローフィルターだけが残念だった。

下手に女性を登場させず一人に絞った「妻」のキャラクターも見易くてよい。ちなみに映画の終わり、カンは「お前を殺す、家族もな」と放ってソクトに顔を…されるんだけど、このシリーズはソクトの家族の描写がないのもよい。働いていようと家にいようと「主人公の妻」の存在にはうんざりだからね。まあ家族というか女性のパートナーが欲しいという描写はお約束のジョークとして毎度冒頭にあるんだけども。

ルームシェアリング/おひとりさま族/アンニョンハセヨ

コリアン・シネマ・ウィーク2022にてオンライン観賞した作品の記録。


▼『ルームシェアリング』(2021年、イ・スンソン監督)はおばあさんグムブン(ナ・ムニ)と大学生ジウン(チェ・ウソン)の同居を描いた一作。ラストカットがうんこしている笑顔というのがこれまた韓国(笑)

窓がない部屋でさえ家賃が高くて借りられない、兵役に行かねばならない、といった若者のしんどい境遇の中で(この映画の態度としては「それはさておき」というべきか)限りなく強く明るく優しいジフンと、お金に執着し誰にも心を許さない一人暮らしのグムブン。それぞれの過去を小出しにしつつ終盤で二人がソファに並んでそのような生き方に至った理由…これまで何がどれだけ辛かったかを告白し合うというのは斬新な作りとも言え、双方、特にナ・ムニの演技で見せる。壊れた洗濯機に向かっての「みんな、行けばいい」。


▼『おひとりさま族』(2021年、ホン・ソンウン監督)は他人を寄せ付けないジナ(コン・スンヨン)の暮らしを描いた一作。『ルームシェアリング』では「孤独死」後の清掃の仕事に入った主人公がおじぎをする(ようになる)場面があったけど、こちらには意外な形のそれが見られる。

この手の映画にままあるように、ドラマやモッパンを見ながら食事するジナは真に一人が好きというわけではない。「教わった通りに私も教えてます」とのセリフから、社会に倣って心を開かないことで自分を守っているのだという信念が伺える。やがてその根にある父親へのわだかまりも見えてくる。そんな彼女が地方出身の職場の新人や怪我をしている時に引っ越ししようなどという(人手を借りる・貸すのが前提で生きている)隣人との出会いで変わっていく。何室もあるのに一部屋にこもっていたのが他の部屋にも足を踏み入れるようになる。大変に開かれた最後の展開はいいなと思ったけど、いまいちぴんとこない要素も多々あり(隣室の男性の孤独を「人肌恋しさ」とすることとか…実際そういう変換はあるのかもしれないけど…「孤独死」の記事にある「ひきこもりとおたく問題」との見出しとか)。


▼『アンニョンハセヨ』(2021年、チャ・ボンジュ監督)は死にたいと願う19歳のスミ(キム・ファニ)と看護師ソジン(ユソン )、彼女が勤めるホスピスの人々との交流を描いた一作。私の得意じゃないスタイルの映画だけど、今回上映された(うちの)三作のうちの一つとしてみると伝わってくるものがある。多くの、あるいはこうした機会に注目される作り手は若者の生きづらさに色々なやり方でアプローチしているんだと分かる。

死にたい者と死にたくはないがいつ死ぬか分からない者が相見えると、つまり死に近い者が複数になるとコメディ調の演出が可能になるというのは考えるとやはり面白い。しかし序盤は行き場のない者が独特な共同体に受け入れられるという古よりある物語、あるいは自分に合う場所に巡り合えた物語として見ていたら、終盤全く違う類の、私としては不要な要素に重点が移るので戸惑ってしまった(それゆえか三作の中で一番長い!)。

君だけが知らない


病院で目覚めたスジン(ソ・イェジ)を「夫」のジフン(キム・ガンウ)が車に乗せてゆく道のりが荒涼とした何かの中に潜っていくように見えたものだけど、着いた先は開発途中らしき荒地の中に建つ新しいアパート。やがてそこはいわば記憶の塔となる。「知らない」とは地に足がついていないような不安なものなので記憶を失った彼女はそこを歩き回るが、その外にいる信頼できる人々を演じるのが韓ドラ馴染みのヨム・ヘランやペ・ユラムといった地に足のついていなかったことのない面々なので(そういう役を血肉にすることのできる面々と言った方がいいかな)温かい気持ちで見ることができた。

(以下「ネタバレ」あり)

見ながらふと、ハ・ジョンウ演じる主人公が子どもらを傷つける大人達の責を一手に背負う「クローゼット」を思い出した。こちらでは一人の女に暴力を振るう男達の責をキム・ガンウ演じるオッパが全て引き受けているわけだ。しかし第一にそれは主人公がするからこそ描く意味があるのであって、その人物が主人公を守って死ぬだなんて犠牲が過ぎる。「お前は悪くない」がああいう文脈で使われるのにも違和感を覚える。第二に片方が記憶を失っているとはいえ大人同士の関係において、お前は何も知らなくていい、とにかく自分に任せておけという態度をよきものとして描く…「すべて君のためなんだ」というのは本当だったんだ、という物語は受け入れ難い。

ひとつ、打ち寄せる波に向かって進もうとしても進めず浮くことにする、独特な海の撮り方が心に残った。