週末の記録


ボジョレーヌーボーはいつものルイ・テット。
初日はヴィロンのバゲットレトロドールでのオニオングラタンスープにランプフィッシュキャビアと「貧乏人のキャビア」(マスキングテープの文字は同居人の)。私が作ったのはフラメンカエッグ、ベランダの最後の内藤とうがらしを入れた。
二日目はサーモンステーキ。タルタルソースで食べたいと同居人が卵5つで盛大に作ってくれた。焼いたネギとレモン汁をかけて食べたら美味。


南池袋にオープンした卵スイーツ専門店「八ヶ岳のたまご」にてお買い物。エッグタルトもだけど、プリンがとても美味しかった。

未来は私たちのもの/ベルリン・アレクサンダープラッツ

ドイツ映画祭2021にて観賞。


▼「未来は私たちのもの」は2020年ドイツ制作、ファラズ・シャリアット監督。イラン系移民の両親を持つ青年パーヴィス(ベンヤミン・ラジャイブプル)がイランからやってきた難民の姉弟と出会う物語。

監督自身のものだという、セーラームーン姿の男の子が歌い踊るホームビデオのオープニングからは、この人物(場面変わって主人公パーヴィスだと分かる)がこの衣装を買ってもらったこと、こうして映像を撮ってもらったことが分かる。後のホームパーティの場面からは、一族がドイツで安定した暮らしをしていることが分かる。特に冒頭の映像は、後で心に効いてくる。パーヴィスの母とバナフシェの母が、イランから来た当事者としていわば時を越えて語らう場面で不意に思い出されてならなくなる。この映画には、世に存在しているのだから既に描かれていそうだけども描かれていなかったことが詰まっているけれど、この場面がまずその一つだ。

パーヴィスが恋するアモンの作中最後のセリフは「ぼくのことを見て」。彼らが物語の、いや物語がどうとかじゃない、ずっと前からずっと先までされるのはそれとは真逆のことである。冒頭パーヴィスがセックスした相手に「君はどこから来たの」(「ぼくは毛むくじゃらの外国人は苦手なんだ、ギリシャ人やトルコ人みたいな、君は違うけどね」)と言われるのを始め、多数派じゃない限りつきまとい続ける、彼らを分断もする属性に対する評価の数々。パーヴィスが奉仕活動で出向いた施設で難民のふりをする場面も、大変「分かる」けれども映画で見てこなかった類のものである。

前半に二度あるパーティの場面を見ながら昔のことを思い出した、というより当時も意識しなかったことがふと頭に浮かんだ。パーティとは集まる手立てであり、とりあえずの居場所となり得るが、その後にだらだらしたり一緒に帰ったりする相手こそが自分にとって特別なんだって。別に「恋」が関わっていなくても。


▼「ベルリン・アレクサンダープラッツ」は2020年ドイツ・オランダ制作、ブルハン・クルバニ監督。原作小説は未読、ファスビンダー版ドラマは記憶がおぼろげ。

初対面の「白人」に問われる「どこの国の人?」、愛する人に言われる「あなたの全てを見ている」、「未来は私たちのもの」と「ベルリン・アレクサンダープラッツ」はほぼ同じセリフが柱となっている(=移民・難民の人々にとってこれらの言葉には大きな意味があり得る)。しかしラインホルト(アルブレヒト・シュッフ)のせいで全てがずれ込んでくる。彼がフランシス(ヴェルカー・ブンゲ)に国を聞くのは下働きを探しているからだし、フランシスはラインホルトとのあれこれを「自分の全て」に含めたくないと考えているからだ。フランシス(フランツ)の出自を変えたとて変わらないこのラインホルトによる様々なドラマがあまり活きていないようで勿体なく思われた。

フランシスはラインホルトによってドイツの名前のフランツと名付け直される。後に知り合ったミーツェ(イェラ・ハーゼ)が売春に出かける前、仕事に使っている名前の「キティ」はこんな女、こんな女と話す場面で、二人は別の名前を持たざるを得ない存在なのだと分かる。二人が、名前を直接的に奪ったわけではないが彼女らを人とは思っていない男の元へシンプルな殴り込みに行く場面が作中一番好きだ。そして最後の「お前のアリバイを証明するのは…」の、苦笑するしかない「オチ」。別の名前で生きている者同士の互助は成り立たないとでもいうような、どうしろというんだとでもいうような、あそこが映画の一番深い穴だったと思う。

笑いごと


フィンランド映画祭2021にて観賞、2020年制作・アンナ・ルオホネン脚本、レーッタ・アアルト監督。脚本家として行き詰った35歳のマリア(エレナ・レーヴェ)が市民大学スタンダップを学び初心者コメディアンのコンテストツアーで国内を巡る物語。脚本を手掛けたアンナ・ルオホネンのメッセージ映像によると、内容はフェミニスト・コメディ・アカデミーでの自身の経験に基づいているそう。ステージに権力が強くあることを学んだのだと。

冒頭マリアが客として出向くスタンダップショーは、最悪な時の寄席にも似ている。手垢のついた「嫁」ネタに男性客が沸き、女性が異なものとしていじられる。映画には数々の「場」が出てきて、その時の構成員によって受けるネタが変わる。ツアーの車内では、最も普通=「ヘテロの白人男性」であるトミ(ヨーナス・サールタモ)のジョークに誰も笑わなかったり、思いがけない話題でマリアが「一人」になったりする。

スタンダップと反対のことは、家でSNSに泣き顔マークをつけること」。この映画はスタンダップとは(立ち上がって!)世界にもの言うことだと言っている。「単身子なし女性」のマリア、ノンバイナリーのキラ、有色人種のカリが自身に基づいたネタ作りをするのに対し、何も主張する必要のないトミだけが実生活とネタを切り離している。同様の人々に受けるネタを繰り返し、女性蔑視も「ネタなんだから何が悪いのか」というわけである。

新人ツアーの話ゆえステージの場面ではほぼ胃が痛くなるような思いをさせられるわけだけど、中でも最後のあの、面白くないどころか胸糞悪いだけのバトルは、考える機会を持たなかったトミをマリアが自分と同じステージに引っ張りあげた…いや、「ネタ」という鎧を無理やり脱がせた瞬間なのである。男だって弱味をさらしていいじゃないか、自分を見つめていいじゃないかというのをあまりの荒療治で行ったとも言える。

マリアが繰り返す愚かな言動に、もし私ならもっと酷いことをしでかしているだろうなと思いながら見た。ときめく瞬間があっても、キスやセックスをしても、「恋」には至らない、そういうことを描いてくれているのが特によかった。

ファイター、北からの挑戦者


原題「파이터(Fighter)」。脱北者であるリ・ジナ(イム・ソンミ)が「私の闘いは始まったばかり、これからも闘い続ける」のは物語の最初から最後まで変わっていないが、愛があれば違う、笑うことができるという話である。テス(ペク・ソビン)の「これからも好き」について、そんなもの変わり得るじゃないかと思うのは贅沢なことで、今そうなんだという気持ちにだって重量がある。彼がおれ、何でこんなことしか言えないんだろうと自嘲する「明日会いましょう」にも同じ心が宿っている。

韓国からフランスに渡ったユン・ジェホ監督の前作「マダム・ベー 脱北ブローカーの告白」(2016)には、北朝鮮出身のマダム・ベーが出稼ぎのつもりが農村の嫁として売りとばされた中国でブローカーをしながら暮らした後にタイを経由して韓国へ渡るまでが収められていた。南へ着いたら終わりではなく「目標を持って頑張ってもうまくいかない」と日々をこなしていた。このドキュメンタリーからは、中国を経て脱北するのは女性が殆どであり家族を呼び寄せるのは難しいこと、家族間に複雑な関係が生じる場合があることが分かる。この作品でジナと母親の和解が大きな柱になっているのはむべなるかなと思う。映画の終わりに二人が交わす目線には希望がこめられている。

支援センターの不動産担当者による性的嫌がらせは若い女がよく遭う類のものだが、ジナの受けるそれは「家長」や更にその上の「国」の庇護がない者の被る害という意味合いも大きいように思われた。相手の機嫌を損ねて立場がより危うくなった時に埋め合わせをする手段は金しかない。相手に叩きつける際には多少せいせいするかもしれないが、そもそもそうした金銭自体にむなしさがつきまとっているはずだ。母親が渡そうとして受け取られずこぼれ落ちるあのお金にジナはそれを感じたのではと考えた。

ボクシングを通じてジナが得たものは「家」ではない。テスと館長(オ・グァンロク)と三人で食卓を囲み酒を飲むのは道端の席やジムの一室といったほんの世界の片隅の、弱いが温かい灯りのもとである。そこには彼女に何も押し付けようとせず、ただ椅子を引き寄せたり「泣いてもいい」と声を掛けたりするいわば待ちの優しさがあった。

「マダム・ベー」の韓国パートの始まりは建ち並ぶビルに重ねられた大きな声だった。「私の祖父は傷痍軍人です、誰が銃弾を放ったのでしょうか、共産主義の蛮行を忘れてはいけません」。そうしたプロパガンダがジナの受ける差別、直接的な言葉なら「韓国人でもこんなところ、住めないよ」「あの子、脱北者なんだって」などを引き起こしている。それがボクサーとなればポスターにでかでかと「脱北ボクサー」と書かれるのだから、当人の意思であろうとどうだろうとおかしなものだ…思えばこれに似たことは世界中にある。

結婚式、10日前


イスラーム映画祭6エクステンデッドにて観賞。2018年イエメン、アムルー・ガマール監督作品…と言ってしまえばそれまでだけど、前説によると、本作は現在映画産業のない同国においてイエメン人によってイエメン人のために作られた初の商業映画であり、劇場がないため当初は結婚式で上映されていたのだそう。イエメンは戦禍や飢餓で人々が苦しんでいることを世界に「忘れられた国」であり、この映画には若い世代の願いがこめられているという話だった。途中と最後に流れる曲の歌詞は、国に向かって「一番近くにいるぼくになぜこんなひどい仕打ちをするの、ぼくのことを忘れないで」と訴えていた。若者達が少しでも自分の思う通りに生きられるよう頑張っている物語に私には受け取れた。

内戦を挟み婚約してから5年も結婚できずにいるラシャーとマアムーン。やっとのことで式にこぎつけんとするが思いがけないことばかりで駆けずり回るはめになる。予算が足りなくなりキャンセルに出向いた式場のオーナーは喜劇調の場面で「戦争が起きたのか、誰かが病気になったのか、死んだのか」、経営している店の賃料未払いで訴えられたマアムーンに対して裁判長は厳しい場面で「内戦が終わって3年も経ったのにまだそんなことを言っているのか」と口にするが、戦争は全然終わっていないじゃないか、あなたたちのような年長の男性、もちろん女性にとってもまだ続いているじゃないか、という話である。

ラシャーの「あなた(マアムーン)と結婚するしか家を出る手段がない」とは裏を返せば強制結婚がありうるということで(婚姻が危うくなった時、彼女の味方である兄が「家族の同意がなければ結婚できないから、父さんが旅行中ってことにしておれが同意したらどうか」などと言う。ちなみにこの後の「これはおれの意見、あとは二人が決めてくれ」など、男性のセリフにつきなかなか考えられていた)、中盤からはラシャーの一家に恩を売り若い彼女を二人目の妻にしようとたくらむ親族の脅威から逃げる話になるので、コメディ調であれどどうしても怖くて笑えなくなってしまった。ただ面白いのは、このことが二人が結婚後に住むはずだった場所を失った理由と繋がっているところ。話の発端は、マアムーンの叔母さんが「二人目の妻」になるのを拒否して実家に戻ってきたことなのだ。マアムーンの母親を中心に家族でハグし合う姿が素晴らしかった。

若い二人がふうふう言いながら高所の家を見に行く場面には、ジェーン・フォンダとレッドフォードの「裸足で散歩」も思い出し可笑しくなってしまった。そう簡単に住むところは決まらないが、ともあれ当地の不動産事情が垣間見えるのが興味深かった。作中何度かカメラが引いて広く捉えられる瓦礫だらけの町では使える土地や家が限られており、賃料の割にはハード面は勿論インフラも全く整っていない。他国へ逃れた人の土地を奪っただとか他国から逃れてきた難民が部屋を借りただとかいう話が出てくる。ラシャーが「瓦礫になってから全てがダメになった」と言うあの「家」は戦争が終わっていないことを表している。それでも二人が市場で食事し商品を見、最後に「お楽しみ」と消えていくあの場面の活力に満ちていたこと、見終えて私こそがそれを分けてもらったような気持ちになった。

エターナルズ


まずはBTSの曲を使用した初の「日本で劇場公開されたアメリカ映画」として記録。ボリウッドスターとなったキンゴ(クメイル・ナンジアニ)が、撮影中に彼を呼びに来たセルシ(ジェンマ・チャン)、イカリス(リチャード・マッデン)、スプライトの前で「BTSも出演するのに」と嘆いてみせる。その後にプライベートジェットで他のメンバーの元へ移動する際に機内でずっと流れているのが「Friends」。ジミンとVが「ぼくら違うけど、永遠に(「この歓声が消えても」、すなわちステージを離れても)一緒だよ」と歌う曲である。
BTSを初めて使用した「ファイティング・with・ファイア」(2019)がジョン・シナ演じる「有害な男らしさ」を持った森林消防士が子ども達の影響で聴くようになるという話であることを踏まえても、今のところ彼らは世界の新しい要素の表現として機能しているようだ。いや、今回は若い世代の女性(クロエ・ジャオ監督)が大作映画を軽々と自分の好きなもので埋め尽くした、彩ったという意味合いの方が強いかな。

男が大勢出てくる映画は星の数ほどあるけれど、男にも色んな男というか人間がいるということを描いている映画は実はそう多くない、それを描くことがつまるところ女の映画を成立させる場合もあると気付かされた。常に誰よりも高い位置を保ち、自分こそリーダーにふさわしいと信じ「決められたもの」に従うイカリス、当初より指令に疑念を抱きイカリスの何たるかを「ぼくを魅了するのか、脅すのか」(返してイカリス「他にも方法はある」…それが何かは最後に分かる)と見抜いているドルイグ(バリー・コーガン)、イカリスを疑いもなくボスと呼び自分は彼に勝てないと思い込んでいるキンゴ、家庭を自身の居場所と定めた「ゲイ」のファストス(ブライアン・タイリー・ヘンリー)。そしてユーモアを持ち素直にセルシを待つデイン(キット・ハリントン)。
中でも私にとって面白かったのは、「愛する者を守るのは当然」と記憶の残存による混乱で周囲を傷つけるセナ(アンジェリーナ・ジョリー)を長い間ケアしてきたギルガメッシュ。マ・ドンソクは元々韓国映画においても常人ならざる力を持った上で男の世界から外れている役を何度も演じている。今年見た「白頭山大噴火」も(非力だけど)そうなら「スタートアップ」もそう、こちらでは本作同様エプロンを身に付け料理していた。過去には「グッバイ・シングル」(2016)などでもエプロン姿でかいがいしく働いている。一目で分かる強大な力を自己のためには振るわないことでこそ何かが表現できると考えられているのだろうか。

中盤までは過去…大過去といっておこうか…が現在と同等の重量感でもって扱われているため足元が定まらず落ち着かなかったものだけど、次第に分かってくる。あの大過去は全てセルシの、「きれいな星ね」「ぼくはイカリス」「私はセルシ」に始まる、他者に支配されることがあってはならない記憶なのである。人間を知り、イカリスと愛し合い、仲間とばらばらになる。「私たちが死なないのは元より生きていないから」と悟った彼女にとっての生そのものであり、ゆえに「重い」のだ。
全編を振り返ると、これはセルシが自己を確立するまでの変化を辿る物語である。愛だけを持ち、ただ指令に従っていたのが、真実を知り、「怖くない、暴力の連鎖を断ち切るだけ」と自身の目的のためにより大きな力を身につけていく。その過程でイカリスの顔色ばかり窺っていた仲間、最後にはイカリスその人の支援や励ましも得て最大限の力を発揮する。道のりが大変すぎやしないかと思いもするけれど、社会の現実を写し取っていると考えたらうまく出来ている。

告白


のむコレ'21にて。2020年韓国、ソ・ウニョン監督。女性監督に女性メインキャストというのに興味を惹かれ観賞。画にも音にも新しさは皆無だけど(どちらかと言えば古臭いけど)、見たことのないタイプの映画だった。ただ、その「見たことのない」感は作り手の力が話に全振りされているゆえの肉付けの薄さによるようにも思われた。熱量を持った物語なのに、どこか体温の低さというか踏み込みの浅さを感じさせた。

ある朝に公園のベンチで言葉を交わした女二人、交番勤務の警官ジウォン(ハ・ユンギョン)と児童相談所の職員オスン(パク・ハソン)はいずれも職業上の任務からはみ出す行為をしていた(二人が知り合うのも前者のその「はみ出し」が切っ掛け)。ストーキングの被害が出る前に防げないかと声を掛けて回ったり、10歳の少女ボラを虐待している父親に手を上げてしまったり。いったんは分かれるも、奇妙な誘拐事件が彼女らを繋ぐ。

冒頭ジウォンが「女性への暴力撲滅」ポスターのモデルとして写真を撮られている場面に、とかく若い女性がアイキャッチとして利用される社会において、この手のポスターに彼女がふさわしいのだろうかと考えていたら、中盤その意味するところが見えてくる。彼女は「ポスターに書いてあることは実現されねばならない」と考え、この世の暴力撲滅を一手に引き受けんばかりの気持ちでもって生きているのだ。作中最後の言葉が、彼女が当事者だった時に目にした(本国版ポスターにある)「あなたの味方になる」だったことからも、この映画は、何かを言っている人は本当にそれをしているのだろうかとも訴えていると分かる。

ジウォンとオスンそれぞれの職場の仲間は常に彼女達の味方であり、先輩は権力の前でも身を呈して守ってくれる。しかし彼らは仕事においては「わきまえ」を持ち余計なことはしない。それで十分、あるいはむしろ正しいはずである。でも、この映画のストーリーからするとそれは彼らがサバイバーではないからと読めてしまう(明言されてはいないがそう読める)、それが疑問でもあり悲しくもあった。あのポスターには、世の皆でなくとも交番の三人が在ってほしかった。