マダム


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2019年スイス、ステファン・リートハウザー監督。

これまた妙のあるドキュメンタリーだった。「おちんちん」に始まるホームビデオ、長じては主に写真に映し出されているステファン自身がその頃のことを語るのは、自分が主演の映画にナレーションをつけるようなものだが、そこには未だ当時に囚われているかのような空気がある。対して「がみがみ言ってた夫の嫌な思い出なんてない」と口にする祖母の昔の語り様にはそれが無い。最後の「ぼくも全てから自由になった、まだそうでない部分もあるけどね」とのセリフでそのことが証明される。思い出を持たないことと記憶を持つこととが両立するというのは楽しい発見だ。

「外で男と会ったなら結婚するんだ、さもなくば殺す」と父親に言われての15歳での結婚に始まり「強姦と同じ」の結果の妊娠、一人きりでの出産、その直後の離婚、元夫からは勿論家族からも縁を切られての、全ての人間を敵に回しての女性実業家としての道のり。祖母は「ジュネーヴで二番目に運転免許を取った女性」なのだそう(序盤にステファンの「フランス語では女性の運転手は存在しない」という語りが挿入されている)。そのような女性が孫に「男らしくあること」を望んでいたというのは今の基準では奇妙にも映るが、自分の祖母や母…普通に仕事をし夫と家事を分け合い私に女だなんだと言ったことはない、とはいえそういう頭がないわけではない…を考えたらむしろ「自然」、いや「よくあること」で、加えて後から見れば、いや現在だって、私もそういう存在なんだろう。

祖母が決して忘れないという「一人きりでの出産」の話にかぶる、ステファンの母の出産後の様子。それは祖母が望んだお産の見目だったかもしれないけれど、そこから今度はステファンの、「国を繁栄させるために男にはパワーと義務がある」と刷り込まれて育ち苦しむ人生が始まる。父の側にだって、そりゃあ叶えられなかった夢から息子の「告白」後の混乱まで色々あったろうけれど、そのような作り手によるものは世に溢れているわけで、本作はこれまで喋らなかった者の記録と言える(ステファンの語りには、洗脳が解けた者が組織を告発するかのような匂いもある)。挿入されているスピーチ映像において彼が「スイスの全てのLGBT(字幕ママ)がカミングアウトすればホモフォビアは消滅する、ぼくらは数が多いから」と訴えていることからもそういったこころざしを感じる。

固有名詞の数々に同世代なのではと検索してみたら、監督は私の二つ上だった。「モスキート・コースト」でリヴァーの夢を見、「いまを生きる」に憧れた頃の容貌は当時のピーター・ウィアーの映画に出てくる青年そのもの。自分の周囲の男子にも全然あった可能性なのだということを実感する。それにしても、十代半ばに撮ったらしきフィルムでは仲間の扮する女性によって彼の中の恐ろしいものが表現されていたけれど、実際に出演したサーカスを記録したホームビデオで(大人の演出により)少女達が鞭で打たれる姿には敵わなかった。今でもそう変わらないものが見られるしね。

思春期 彼女たちの選択


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2019年、セバスチャン・リフシッツ監督。フランスの田舎町に暮らす二人の少女の13歳から18歳までを収めたドキュメンタリー。

映画は中学二年生になったアナイスとエマが教室で並んで先生の話を聞くのに始まる。「あなた達の十年後なんて知る由もない」。よくもこんな場面が撮れたなと考えるべきかこのようなシステムの国の教員がこのような話をするのは必然と考えるべきか、振り返ればこれは、フランスの教育制度の中でティーンエイジャーが他の誰も責任を取ってはくれない道をゆく話なのだった。

学校に通っている二人にとってその比重は大きいものだから、特に前半は教室の場面が多いのが私としては楽しかった。先生達の喋る内容が多く使われているのが印象的。生徒がインプットしている(されている)内容を記録しているとも言える。そう考えたら、終盤に哲学の授業での「子ども達は刷り込みを受けて育つ」という教師の熱弁が挿入されているのも面白い。

シャルリー・エブド襲撃事件についての教室での意見交換、放課後の友達とのお喋り、夕食の席でイスラム教徒はテロリストとは違うと両親に強くぶつけるアナイスの姿(親の反応は映されない)。教員が想定する見本のような連鎖がここに記録されている。この映画では、「うちは貧乏、私は苦労している」と自ら認めるアナイスの方が熱心に政治を語る。一方のエマは反応が薄いように見える…のを、これが「フィクション」だったなら、母親とのぶつかり合いで摩耗しているのかもしれないと解釈するところだけど、実際には分からない。この映画を振り返って最も思うのは、人が考えている内容は外からは全く分からないということである。こんなにも言動が焼き付けられているのに、出てくる人々が何を考えてそうしているのか私には何の確信も得られない。

男の子の話をしていたのが実際に、アナイスが先に、男の子と付き合うようになる(直前の場面における「完璧な男子はいない」!)。「初体験」の話をしていたのがやがて、これもアナイスが先に、経験するようになる。頭の中で考えていたことをいわばなぞる。さすれば映画の終わりのアナイスの過去の振り返りと未来の予想からして、そりゃあドキュメンタリーだけども、そうなるのだろうかと想像する。この映画の撮影こそが、ああいうことを彼女に考えさせ、言わせたのだろうか。

平日の記録


今年の恵方巻きは魔女キンパ。同居人が麹甘酒を使った鶏の照り焼きと蒸し野菜を作ってくれて、私は豆腐とわかめのスープを用意した。豆をまいてから楽しく食べた。


あったかいバームクーヘン。
ねんりん家のホットバーム しっかり芽&ブラウニーは「自宅のレンジで温めるとまるで出来立て」とのことだったけど、勝手が分からずポテンシャルを引き出せず。
コメダ珈琲店のクロネージュ リッチショコラは、昨年やはりゴディバとのコラボ商品を目当てに出向いたら品切れだった経験から早々に食べてきたもの。真ん中に隠れたラズベリーソースが効いていた。

花束みたいな恋をした


映画「デート&ナイト」の冒頭、レストランで近くの夫婦を茶化して喋り倒すティナ・フェイスティーヴ・カレルが私は大好きなんだけど(これはアメリカ映画でよく見られる「気の合う二人」の描写、彼らの場合は「倦怠期」だけども)、それ以前の二人はどんなふうだったのか、というところから描いてるのがこの映画だと言える。各々が心の中で延々つぶやいていたことが出会いによって口から出て交わるようになるのが面白かった。髪を乾かしてもらう、乾かしてあげる場面では更に違うふうに重なる。でもって「恋」が生まれてしまうのだ、厄介なことに。

友達の結婚式からの帰り道、私達は絹(有村架純)が「あれよりましだと思うようにしてる」ことを麦(菅田将暉)にまだ話していなかったことを知る。彼女はその晩の「これだけ付き合っても知らないことってあるんだね」に思うところがあって駆け込みのように口にしたのだろう。それからの三か月のあまりに楽しそうなのを見ると、恋愛というもののいびつさばかりを思ってしまう。一緒にいれば楽しいんだから友達じゃダメなのか、なぜ恋人、あげくに結婚にこだわるのかと。だから私にはこれは、就職難や労働環境といった問題というより、社会によって作られた「恋愛」に押し潰される二人の物語に思われた。歳を取ったらもっと自由になれるんじゃないかと思う。

麦の本棚を見た絹が「ほぼほぼうちと同じ」と言っていたけれど、新居に越す際に彼女は自分の本を実家に置いていったのだろうか。同じ本が二冊ずつ並んでいるのかそうでないのか、目をこらしてみたけれどよく見えなかった。そんなに量はなかったから、やっぱり「二人で一冊」にしたんだろうか。誰かと暮らすというのは他人の買った本を家に入れるということである。麦が本屋で見ていたあれが本棚に並ぶのを、絹は許せるだろうか。もちろん持ち物を別にするという手もあるけれど、それは「どういうつきあい」かによる(そしてその点でも、歳を取ることで幅が広がることが多いと思う)。ともあれこのことと、イヤホンの話、「恋は一人に一つ」とは繋がっているはずだ。

この話では重要な点ばかりがばっさり切られている。例えば「新卒で就職しないと人間じゃない、みたいな扱い」の家を絹はどうやって出たのか。二時間の映画じゃ尺が足りないだろうけど、出すだけ出しておいていつの間にか溶けている問題があまりにあるように思われた。ちょうどドラマ「ミセン」(2014年韓国)を見終わるところというのも悪かった。優劣以前に、若者が大企業で成長してく様を20話もかけて描いているのを見た後では、二時間内で全部ひっくるめて語る本作には、えっもう会社の人になったの?と思わざるを得ない。

しかし実は一番言いたいのは、バイト先で行われている不倫や麦の先輩の暴力などの扱いについて。あんな不真面目に、あるいは中途半端に扱う位なら他の何かで代用できなかったのかと思う。こういう問題にはテアトル新宿においてよく遭遇する…すなわち日本映画によくある問題ということだ。外国映画は日本に入ってくる際にいわば検閲を受けているわけだから、日本映画にばかりそういうのを見てしまうのかもしれないけど。

平日&週末の記録


「愛妻の日」ということで昨年に続いて花をもらう。今年は桜と菜の花。菜の花の匂いが久しぶりで嬉しく、何度も嗅いでしまった。
ミスタードーナツのピエールマルコリーニコレクション、学校の帰りなどチェックしても目にしたことすらなかったのを、同居人が並んで買ってきてくれた。赤いハートのデニッシュショコラフランボワーズから食べる。美味。


久々にカナルカフェのデッキサイドへ。フィッシュ&チップスとカフェラテで二時間あまり、コートに帽子でうちらは大丈夫だったけど、テーブルに置いたiPhoneの電池が随分減っていた。
歩いて帰る道すがら、神楽坂のオー・メルベイユ・ドゥ・フレッドに初めて入ってメレンゲにフラマンドル風ワッフルのヴェルジョワーズを一枚。食べたら甘い!


先週の平日、大泉に行った同居人が、ドムドムにはチーズタッカルビバーガーがあるんだって、と私が話したのを覚えていてくれて、明太厚焼きたまごバーガーと一緒に買ってきてくれた。前者は肉が大きく、後者は大葉が効いていて美味しかった。
サンドイッチハウスメルヘンの高島屋限定フルーツサンドはあまおうとゆめのか二種の苺使い。くるんと挟む方式をうちでも取り入れようと思った。

わたしの叔父さん


冒頭の一幕、それまで半ば隠されていたクリス(イェデ・スナゴー)の顔が初めてはっきり映るのはトラクターの運転席から叔父さんを見る時。朝から視線を合わせることもなく互いにやることをやっている相手への、「心配でたまらない」という瞳が映画の後もなお心に残る。それゆえ、あらすじだけ聞いたなら歯痒くてたまらなくなるようなこの物語が、私には、彼女は今、やりたいことをしているのだというふうに思われた。

クリスと叔父さんは最初から最後まで常に違うものを食べている。それが彼らにとっての共生である(レストランでも、気を遣って彼女に合わせるマイクに対し二人は別々のメニューを注文する)。日々めいめいの仕事をめいめいでこなす彼らの作中初めての共同作業が大きな布を畳むことというのもいい。ちょっとしたことだけど二人いないとうまくいかないものの最たる例だもの。ついでにふざけることだってそう。

クリスが獣医と近所の家の豚を見に行く際、方向指示器の音と共に車が本道に出るワンカットにぐっときた。現実でも映画でも、幹線道路や本道は外へ繋がっている。そこそこの田舎に育った私にとって、子どもの頃、両親の車に乗って聞くあの音は、一つ聞く度、すなわち一つ曲がる度に外へ出てゆくんだという期待を煽るものだった。でも同時に戻ってくることのしるしでもある。この「戻ってくる」乗り物を最近他の映画でも見たなと思い出してみれば「詩人の恋」の済州島のバスだった。

常時流れているテレビのニュースには、カウリスマキの「希望のかなた」を見た時、天安門事件のニュースで幕開けすると言ってもいい「マッチ工場の少女」で自分達と同じく存在していると確認していた世界が「ここ」までやって来たのだと考えたのを思い出したものだけど、本作ではニュースは端的に「外」の象徴である。映画の終わりにテレビが壊れるのは、二人が外から完全に絶たれたことのしるし。でもずっと絶たれたままということはないし、崩れたバランスがどうなるかは分からない。かりに日本の話なら、学び直しの際のお金の問題などが念頭にあるだけにそうなれないかもしれないけど、私としては明るい気持ちでエンドクレジットを眺めた。

フェリチタ!


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2019年、ブルーノ・メルル監督。住居を持たずに生きる一家の子、11歳のトミーが待ち望む新学期前日の物語。

「音楽をかけなきゃな、最高のを」の後の「Felicita(フェリチタ=幸福)」が、私には、「普通じゃない」マイノリティが一見極めて普通のことを歌うポップスをこそ愛してきた歴史に通じるように感じられた。一家の中で、いつものようにイヤーマフを付けてしまうトミーだけがその境地にはない。

父親ティム(ピオ・マルマイ)の「お前は常に選べる、でも慎重に選べ」は当初ただのずるっこい牽制のように思われるが、後にこの物言いが自身の重い経験に基づいていることが判明する。トミーの「ずるい」に対する母親クロエ(カミーユ・ラザフォード)の「そういうこと」も、断れなかったという「映画」の話も然り。映画の終わりには、二人が「やり直し」をするのは、彼らにとって自分の意思でどうにかなるのがその範囲にしかないからだと分かる。

次第に見えてくることに、事情のある両親の時間はいわば止まっている。一方子どもの方に事情は無く、ただ未来へ進んでいこうとしている。この時間の動きの食い違いが不幸を生む。トミーは水をやっていた畑を踏み潰すなど、未来のためにした行動を自分で削除することを余儀なくされる。クロエは子のために文字通り必死になってぬいぐるみを取ってくるが、それはお金持ちの家の親が子の時間を無理やり進ませようと排除したものである。どちらにも完全な幸せは無い。それがこの映画の態度だろう。

トミーの「今日は大丈夫、明日、明日、明日」が意味するところは、彼女が一日一日を親に迷惑を掛けられないよう憂慮しつつ生きているということである。好きな人に対して嫌な感情を持ちたくない、嫌いになりたくない、だから聞かない、見ない。子どもの出来ることってそれだけだ。それでも目には入ってしまうから、涙が出る。とはいえ映画の終わりの彼女の疾走は本物だろう。あの後時計が噛み合う可能性は、なくはない。