新感染半島 ファイナル・ステージ


「お前らなんていつ難民に認定されるか分からないんだから、金を貯めとけよ」(=「自助」しろよ)。こう焚き付けて人を使い捨てする奴の「助け合ってたら死ぬぞ」とのアドバイスに、「半島」仲間の一人が「この二人(カン・ドンウォン演じるジョンソクとキム・ドゥユン演じるその義兄チョルミン)は家族だから心配だ」と口にする。一瞬分からなかったけれど、その意味するところは、助け合いとは家族に類するものを持つ特権階級の内で行われるものであり、あぶれた者は割を食うということなのである。

この歪んだ、と言うのは適切じゃないか、文明化を目指すなら見直さねばならない類の助け合いの肥大したものが631部隊である。自死しようとしているソ大尉(ク・ギョファン)と傷を負ったキム兵士は生き延びるために所属しているアウトサイダーだと言える。キム兵士が大尉を慕っているのは、外に出て活動しない彼を自分と同類と信じているからだろうか。初対面ではまず銃を向け合う、銃暴力のあふれるこの映画において唯一真に胸が詰まったのは、部隊に捕えられたチョルミンが服を切り裂かれ晒される場面である。その後の、「実際」を踏まえて作られた数多の映画で見てきた奴隷部屋の悲痛さよ。

そうした世界に、ただ「弱い者に手を貸す」という形の助け合いが生まれる、あるいは復活する過程を描いたのがこの映画である。最後にジュニ(イ・レ)が「悪くなかった」と言う、彼女がそれまでいた世界はそれによって成り立っていたのであり、作中最も幼いユジンの言葉を切っ掛けにジョンソクもそれを実行するようになる。「常識で考える」ことしかせずに生きていたら、彼だとて部隊の一員となる可能性がある。

アヴァンタイトルにおいて、韓国が近隣諸国に見放され孤立した経緯がアメリカの深夜番組のトークという形で語られる。私達アジア系が考える典型的な強者=「英語話者の白人」男女が「釜山の発音は合っていますか」などと気を遣いつつ他人事のように話している(ように見える)画面はどこか絵空事のように撮られており、タイトル後に登場する人々が死ぬの生きるのとやっている外側に圧倒的な強者がいることを示唆しているように思われる(この枠組みには数か月前に見た「薬の神じゃない!」(2018年中国)が頭に浮かんだ)。しかし希望、すなわち私達が握っている変化の可能性、はある。人を見放すのは「神」ではなく人なのだから、流れに任せずどうにかして世界を更新していこうというわけだ。

年始の記録その1


元日の朝ごはんと晩ごはん。
餅の嫌いな私は白いご飯に、晩には煮付けてもらったブリの照り焼きをのせて。もらいもののユリ根をガーリックバターで炒めてもらったものもとても美味しく、あっという間に食べてしまった。


二日には海老フライと、筑前煮に使った残りのごぼうを揚げてもらった。私はIKEAのピクルスでタルタルソースを作った。
お雑煮のおつゆに入れたのはサリ麺。美味しいおつゆでさっと煮たこの麺は最高。


池袋駅構内に入店したミニヨンでミニクロワッサンを購入。全種類に加えて季節限定のオレンジ、どれも安くて美味。
トリアノンを通りがかりに買ったのは、ショートケーキとナッツのケーキ(名前を失念)。これも甘くて美味。

今年を振り返って

今年見た映画の中からお気に入りベスト10を、観賞順に。

リンドグレーン感想

▼ロニートエスティ 彼女たちの選択(感想

▼37セカンズ(感想

▼恐竜が教えてくれたこと(感想

▼アドリフト 41日間の漂流(感想

▼イップ・マン 完結(感想

▼幸せへのまわり道(感想

▼ブリング・ミー・ホーム 尋ね人(感想

▼マティアス&マキシム(感想

アイヌモシリ(感想


おまけ。「ファイティング・with・ファイア(Playing with Fire)」(2019制作、今年日本にてソフト発売&配信開始)がBTSの曲を使用した最初のアメリカ映画だということを記録しておく。ジョン・シナ演じる消防士のいわゆる悪しき男性性が、女性を物扱いする行為などではなく(フィクションにおいてはそんな段階はとっくに終わっているからね)「火と『闘う』」という意識にブリアナ・ヒルデブランド演じる少女から疑問を呈されることによって表されるこの映画は、彼が養子にした少年の趣味に合わせてBTSで踊るようになるところで終わる。面白くはないけど悪くない一本。

年末の記録その3


毎年年末の買い出しに行くオライはすぬまにて、東金のタイ料理屋さんが出店していたのでお勧めという焼き鳥弁当(ガイヤーン&カオニャオ)を買ってみたところ、鶏もモチ米も美味しかった。隣の店のいつものイワシ天はいつもの美味しさ。
晦日は私の唯一の担当である筑前煮作りを終えて、年越し蕎麦を作ってもらって食べる。

私をくいとめて


映画はみつ子(のん)が「隣の人」に「よろしく頼みます」と言うのに終わる。これは自分自身(=A)にしか頼ってこなかった主人公が他人を頼りに出来るようになるまでの話である。頼り合うことの出来るまっとうな関係が作中では横並びでもって表され、彼女が誰かと横に、隣に並ぶ場面が繰り返される。とりわけ彼女が頼っていた…はずが実のところは「くすぶりをごまかし合って」いたと自身で認める皐月(橋本愛)と久々に再会するもなかなか隣に並べないのが印象的。雨のカフェでの、真正面に座る、遠くにいるかのように見えるみつ子目線の皐月のカットが心に残る。

みつ子は、CAさんのパンプスにつき「いざという時にはスニーカーに履き替えるって知ってるんだから」という形で悪態をつくことからも分かるように人の背景に情けを掛けるタイプではない。自分に対しても同様。だから温泉での怒りが、Aに、すなわち自身に吐露しているうちに「あの人を助けてあげられなかった」から「私には才能がない」などとダメな自分への苛立ちになるのである。見ていて悲しかったけれど、皐月との関係が良くなってからは絵を、ただ好きだからという理由で描くことができるようになったのだから、彼女の怒りは形を変えていくんじゃないかと思う。

「多田くんと付き合ったら私の生活、何が変わるのかな」「何も変わらないさ、おれが隣にいるだけ」「それなら私にも出来そう」。見終えて振り返ると、そういや初めての食卓でみつ子は多田くん(林遣都)に対してあなたにお茶を出す時も本当はすごく嫌なんだという話をしていたな、やがては料理を作るのが面倒だったとも話すのかな、などと考えるのと同時に、この物語が彼女目線だから私もやり過ごしていたけれど、先のやりとりはもしかして失礼だったろうか、とふと思う。作中のぞみさん(臼田あさ美)や多田くんが少し失礼にも見える場面があったけれど、それは誰にでもあるんだ、みつ子にだって、私にだって当然、と。それを時には話し合って、あるいは許し合っていくのが人と付き合うってことなんだと。

上京して一人暮らしを始めて最も快かったことの一つは、帰宅時に灯りがついていないこと。暗い所に帰ってくると自分がそこの主であると強く実感できる(防犯や利便性はまた別の問題)。しかしこの映画で何度も描かれる、みつ子の帰宅時の「真っ暗」に快さはない。そもそも序盤の「Hanakoに載ってたサンドイッチ屋、一人で行っちゃお」なんて独り言から分かるように、彼女にとって一人であることはそうあらまほしきことではないのである。作中ではみつ子の動揺に応えて照明が消えたり点滅したりするが、初めて部屋にやって来た多田くんが玄関の電球を取り替えてくれるのが、後から思えば彼女が彼を頼ることになる予兆であった。

ケリー・ライカート特集

下高井戸シネマにて開催されたケリー・ライカート監督特集で3作を観賞。


▼オールド・ジョイ(2006)

冒頭、縦列駐車した一台から降りたマーク(ダニエル・ロンドン)が曇天を背に歩いてくる画がなぜだか素晴らしかった。ライカート監督の映画は縦や横がはっきり表れており、それらが意味を持ってなお美しい。

前日に「ミークス・カットオフ」を見たところなので、宙ぶらりんの道中の話が続く。こちらは文明のあるところじゃなく文明のないところを目指すわけだけども。カート(ウィル・オールダム)はそうした地で何か決定的な話をしたいに違いないが、マークは乗らない。

父親になると決まっているがまだそうでないというマークの現状がまず「道中」である。これは自分で如何ともし難い道。対してカートが連れていくのは迷いはしても到達することのできる道。マークはそこに惹かれたのであり、一方で妻の目に涙が浮かんでいるように見えたのは彼女にはそれが出来ないからかなと考えた。



▼ウェンディ&ルーシー(2008)

昔見た時にはここまで素晴らしい映画だと気付かなかった。はっきり覚えていたのはウェンディ(ミシェル・ウィリアムズ)がドーナツ屋でお金の計算をしてドーナツをぱくっと食べるところくらい。ちょこっとお金を、人の心をもらったから、束の間の休息が取れたという、印象的な場面。

本作はライカートの他の作品に比べたら(背景じゃなく比喩や語り方が)明確で分かりやすい。貨物の線路や電線が走るアメリカの一部を車で通りすがったウェンディが足止めされ、その足たる車を失い、結局は大動脈である鉄道に乗って旅を続ける。奇妙といえば奇妙なことに、はぐれた相棒=犬のルーシーを探すことで、「通りすがり」を強調していた彼女はその地にいわば足を着けることになる(貼ったチラシが地元民のと並んでいるのが印象的)。でもそれも刹那のこと。家も仕事もない、から家も仕事も探せない。

映画の終わりに列車から見る、流れていく木々は、私には未練と諦念が入り混じったような、始めに見たものとは全く違う生きた温度を持つものに思われた。



▼ミークス・カットオフ(2010)

ミークとは誰だろうと思っていたら、エミリー(ミシェル・ウィリアムズ)の物騒な台詞で現地のガイドの男と分かる。彼が「ゴールには文明がある」と言うことから、少なくとも彼にとってこの道のりは文明のない、何と言うか空っぽな空間をゆく旅なのだと分かる。しかし実のところはどうなのか。

登場人物がちょっとした仕事をしているのを捉えたオープニングのめいめい感、ばらばら感とでもいうものを面白く思っていたら、終盤、原住民の言うことをエミリーが「翻訳」し、それを信じてあることを行う場面に至って初めて、物凄い共同作業が行われる。皆で何かにぶつかるかのように。

前半、女達が水を回し飲みしたり手仕事をしたりしている画面の外から男達の話し声が聞こえてくるという場面が幾つかあるのが忘れ難い。ああいう状況って結構ある。ミークの「白人でも原住民でも女は皆同じ」も、女にとって、いやこの映画のエミリーにとって、あるいは私にとって、男はそういうものだろうか。例えばセックス一つとっても、そうじゃないと思う。主導権を取れる(そういう文化の中に生きている)からそういうことが言える。



下高井戸にてスコーンを二回。
コーヒーハウスぽえむでは「くるみ×レーズン」のにブレンドコーヒー。平たく大きく固め。いいお店だった。
COFFEE & ROASTER 2-3ではオレンジのとレーズンの2個セットにクリスマスブレンドコーヒー。これはほろほろ。こちらもいいお店だった。

年末の記録その2


長らく私の両親に会っていないからどうだろうとの同居人の提案で、名駅でクリスマスプレゼントを渡して話すだけの帰省。新幹線はがらがらだった。解散後、大須観音脇にオープンしたての「昔の矢場とん」でランチ。小学生のころ給食で味噌カツが出るとタレを取り合ってご飯に掛けて食べていたのを思い出し、最後の二口だけタレをつけて食べてみた。


同居人が行ってみたいと言うので、私も初めての覚王山の揚輝荘へ。時間が無く見て回れたのは南庭の聴松閣のみだけど、小ぢんまりとした中に機能と豪奢が色々詰まっておりとても面白かった。


帰りに名駅のギャレットポップコーンを通りすがりに、名古屋店限定・八丁味噌キャラメルクリスプとスノーホワイトピスタチオのセットを思わず購入。クリスマスぴよりんも無事買って帰路に着く。


東京交通会館の回転展望レストラン、銀座スカイラウンジでディナー。55周年特別メニュー・トラディショナルフルコースの内容は前菜、ダブルコンソメスープに始まり舌平目の洋酒蒸 ボンファムや牛フィレ肉のグリエ ロッシーニ風など。デザートにはやはりマロンシャンテリーを選んだ。勝手知ったる場所を眼下に望んでの二時間は楽しかった。