マーティン・エデン


映画はバターにナイフが入っていくかのようにすっと滑り出す。船乗りの男マーティン・エデン(ルカ・マリネッリ)は令嬢エレナ(ジェシカ・クレッシー)の家を初めて訪れた日にドビュッシーの「パスピエ」を三度聞く。始めはおそらく彼女が別室で弾いているのがかすかに、これは予兆。次に彼女が演奏するのを直に、これは実体だが(観客である私には)魅力は感じられない。最後に彼女とのひと時を反芻する際に心のうちのBGMとして、これはいわば彼の憧れを概念にしたもの。この畳み掛けが面白く心惹かれた。

出世後のマーティンが「世界はおれより強大だが、できることもある」と肉声を録音しているオープニングに続いて時を遡ると、エレナと会う前の彼が船上で既に、多少なりとも読み書きをしている。小説から時代が下っているからかなとも考えたけれど、原作にあった、美と愛への渇望が共に出発するからこその対立のようなものがここにはない。美と愛と、それから金とは対立せず、それらがある世界そのものと彼との対立の話になっているように感じられた。

作中の人々、ひいては映るもの全てがマーティンに語りかけているのかカメラを通じて私に語りかけているのかが判然とせず奇妙な感じを受けた。彼は「世界の目や耳になる」「経験したことの中から意義あるものを見分けて解釈する」のが作家であり自分はそうなるのだと言うから、本作も作家が見聞きし解釈したものを私に伝えているのだと取ることができる。創作物とは全てそうだと言われるかもしれないけれど、この映画は特にそのことを強調している。

ブリッセンデン(カルロ・チェッキ)の死を境に、マーティン自身は変わっていないのに他の全てがすっかり変わってしまうというのが映画ならではのやり方で表現される。その契機となる手紙の読み上げに、日本語字幕では「お原稿を拝見して」とあった。「お原稿」なんて日本じゃ言わないから、そう訳さなければならないイタリア語があるか、大仰さを出さなければならない文面だったかのいずれかなんだろう。ともあれ二時間そこそこの映画では一瞬で表さねばならない世の滑稽さがそこに込められている気がした。

マリアの息子が「あんた(マーティン)のおかげで本を読むようになった」というのも小説にはない要素。彼がマーティンと母親とのやりとりと読書中の本を交互に見る目つきの冷淡さよ。彼はどういった欲望から本を読むようになり、どういう道を歩むのだろう?

平日の記録


結婚記念日に、東京ステーションホテルのゲストラウンジ・アトリウムでディナー。事前に館内ツアーが付いており、いつも見上げているドームを内側から眺めることができた。屋根裏の、天上高9メートルの空間での食事はいつもより美味しく感じられた。写真はブッフェ台中央の、戦禍を逃れた煉瓦による窓枠の前で。

結婚は慎重に!


インディアンムービーウィーク2020にて観賞。2020年、ヒテーシュ・ケワルヤー監督、アーユシュマーン・クラーナー主演。同性間の性行為を「不自然な違法行為」と定めた刑法377条につき、2018年にインドの最高裁判所憲法違反の判決を下した事実が下敷きになっている。

始め「彼のパパ対『ぼく』」という話かと思っていたのが「彼のパパ対『うちら』」になっていき、最後にパパも「うちら」になる。アーユシュマーン・クラー演じるカールティクが「ゲイになるっていつ決めたんだ」「あなたは異性を愛するといつ決めたんですか」「それもそうだな」なんて(実際にはそんなふうにすんなりいくはずのない)叔父とのやりとりからレインボーカラーを纏っての「彼は病気なのだ!その名はホモフォビア」まで、あくまでも正攻法で作中の人々を、観客を説得する道のりが描かれる。変化の過程において、女性は自らの境遇に、男性は自らのものの見方に疑問を抱くという差異があるのが心に残った。

私には始めカールティクとアマン(ジテーンドラ・クマール)が恋人同士だと分からなかった。この物語では二人の愛はただただその正当性を訴えるのに費やすエネルギーの元なのである。しかもアマンの方は終盤まで父親に反旗を翻せないため、「ぼくらは毎日闘っているから(アマンの)家族とは闘いたくない」というカールティクが更に一人ふんばることになる。そもそもこの労力をマイノリティ側が担わなきゃならないのかとどうしても思ってしまうけれど(例えば「女性問題」だって男性の問題なんだから)、これはヒーロー映画なのだった。

作中最初にアマンの父シャンカル(カジラージ・ラーオ)が登場するのは、ヒーローに憧れる幼い息子を殴打している姿。何ということもない回想として描かれているけれど心に刻みつけられたものだが(本作の暴力描写が軽々しく見えるのには引っ掛かる)、結局この映画は全編通して「口ごたえするのか、まさか父親に?」という存在との闘いなのだった。冒頭の恋人同士のバイクの二人乗りに来た来たと思っていたら、最後にこのパパを挟んでの三人乗りになるのが新鮮でいい。

アーユシュマーン・クラーが「セクシーに入場できる曲」での一幕もいいけれど、私はびしっと決まったソロや群舞より、この映画で言うなら結婚列車や会場といった「密」もいいところでの、自分もその場にいたら参加でき「そう」なダンスシーンが好きだ。

マティアス&マキシム


冒頭、同年代の男ばかりの集まりでマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)の「ケーキに火をつける、じゃなくろうそくに火をつけるだろ」という発言が肴にされる(撮影までされておりスマホで映像を見せつけられる)が、そのうち、「言葉警察」とからかわれてしまう彼は言葉をきちんと使おうとしているのだということが分かってくる。遅れてきた仲間の「何の話?」にはこう答えるのだ、「何も話してない」。皆のことは好きでも、あそこで成されているのは彼にとって「話」じゃないから。

マキシム(グザヴィエ・ドラン)は母親(アンヌ・ドルバル)とどれだけ会話しようとすれ違う。やりとりの最中に彼女が「ちゃんと答えて」と言うのは、息子が話しているのに話していないと感じているからである。しかし物を投げられようと唾を吐かれようと、ドランの映画の母は「愛しているのに」の対象である。思っているのに通じ合えないというわけだ。終盤マキシムは見知らぬ女性に「オーストラリアじゃそんな英語は通じない」と笑われるが、言葉を使うことにくたびれて敢えて言葉の通じない国へ行こうとしていたかのように私には思われた。

映画はそんなマティアスとマキシム、それこそ七歳の頃から隣に居た二人が今も横並びで走っているのに始まる。しかし実際には道は分かれ話はできていない。帰りの車中でマキシムはとある看板に違和感を覚えるも何も言わず窓から煙草を投げ捨てるが、もしもあの時に思ったことを話せていたなら、これまでもそうだったなら、関係は既に違っていたかもしれないのに。

停滞していた関係は、言葉を使わず実に直接に、唇と唇、口と口で触れ合うことで不意に発展する。外から内へ何かが響いて、互いときちんと話をしたいという気持ちが湧き起こる。この映画はそれを恋だとしている。マティアスがパーティのゲームの席で突然怒り出すのは、恋におちることで心の奥底にあった「本当の話をして理解し合いたい」という欲望が噴出するも思うようにならない苛立ちの中、マキシムが自分以外と「本当の話」をしていると思ってしまったからなのだ。あのシーンにはやられた。

マキシムが叔母に「あなたは優しい人ね、今の世の中じゃ却って不利だけど、優しい人は警戒されるから」と言われるのが、私としては昨今の映画からよく受け取るメッセージ…社会は男性のシンプルな優しさを受け入れようとしない(が、それでいいのか?)と繋がっており印象的だった。彼がするのは優しく言葉をかけ優しく手を添えること、自身で「ばかでもできる」と言う母親の世話。でも人は「ばかでもできる」はずのことをしないでしょう、植物に水をやったり人の名前を覚えたり。それが大事なんだと思う。

メイキング・オブ・モータウン


ベリー・ゴーディいわく「おれの仕事は才能を最大限、引き出すこと」。スモーキー・ロビンソンを作詞作曲の生徒の第一号とする彼が自身を先生になぞらえることもあり、校長の口から語られる学校の誕生から終焉までの物語といった感もある。エンドクレジットで社歌を楽しそうに歌う二人、冗談にしても「口の動きをチェックしていた」とは君が代かよ!と。生徒ありきじゃなくヒットありきなんだから目的は学校と真逆だけども、適材適所をあてがっていく様には映画「スクール・オブ・ロック」などを思い出した(あれも考えたら教員の話じゃないか・笑)。

車の工場を模して歌手を作り上げていく中、最も養成に時間を掛けたのはやはりスプリームスだそう。しかめ面で歌っていたのを、マナー指導者の手で「貧しい出でも自尊心を持ち、立ち居振る舞いを優雅に、笑顔で歌う」よう教育する。効果は抜群だった。オプラ・ウィンフリーエドサリヴァン・ショーに初登場した彼女達を見た時の興奮を自身の番組で語る映像が面白い。「あんなにglamorでgraceな黒人女性をテレビで見たのは初めてだったから、大勢に電話した、テレビに有色人種が出てる!って」。やがて彼女達は制汗剤のCMに起用されるまでに(つまり、一般の憧れの存在に)なる。

…という辺りでBTSについて書かれた昨今の記事の数々を思い出した。K-POPの下地にモータウンのやり方があるということじゃなく、主にアメリカ国内のアジア系の人々が語る、彼らは世界にアジア人をかっこいいと認識させたという内容について。彼らに重ねて考えると、スプリームスの時にも地均しがあり、更に次に続いたんだろう(ここでは次に続いたのは「かっこいい黒人少年にアフロの女の子達が黄色い声をあげた」ジャクソン5)。作中リー・ダニエルズが「ゴーディは黒人に魔法の粉を振りかけ妖精にして白人の世界へ送り出した」と言っていたけれど、ゴーディの「人生初の教訓」が「黒人の子どもは一人なら可愛いが二人なら脅威」だったことを考えたら第一歩がそうであるのはさもありなんと思う。

それじゃあその先、すなわち妖精の粉を振りかけずとも受け入れられる…という言い方はおかしいな、どこにでも普通に存在するまでに進んできたのかと考えると全然そうじゃないことに気付く。モータウン若い女性に決定権を持たせていたということ(これは「黒人だけじゃなく白人も女性もいた」というふうに語られる)を同様に韓国の文化に引っ張ってきて言うならば「梨泰院クラス」のチョ・イソが思い出されるものだけど、これだって世界において全然そのことが進んでいないからドラマで牽引しようとあんなふうに描いているんだろうから。

「ゴーディは何がポップか…音楽じゃなく、何が面白いかということを知っていた」と語るスティーヴィー・ワンダーは「彼にはビジョンがあったがそれは無難なものだった」とも言う。「枠があり、一線を越えない」モータウンのやり方は、70年代に入り目覚め始めたアーティスト達には枷となる。マーヴィン・ゲイが多重録音という新しい形で「What's Going On」と声を上げたことにつき、現在のゴーディは「まさに芸術だったが止めた」「今なら分かる」と口にする。作中に挿入される、黒人が暴力を振るわれる映像が昔のものなのか今のものなのか私には判然とせず、「ぼくを残虐に罰しないで」とマーヴィンが歌ったあの頃から変わってないじゃないかと改めて衝撃を受けたものだけど、このことと「今なら分かる」という言葉とは関係があるのだろうか?

ブリング・ミー・ホーム 尋ね人


映画の序盤、ジョンヨン(イ・ヨンエ)とミョングク(パク・ヘジュン)が車で拾う青年スンヒョン(イ・ウォングン)に何て素敵な笑顔だと思っていたら、後に自分の馬鹿さ加減を知ることになる。彼はそれを「捨てられないために」身に着けたのである。日頃、女の言動が処世のためと分からない世間に苦い思いを抱いているくせに自分こそ考えが及ばない。その彼が待機する「家族を捜す会」の事務所へ、やはり「ハンサム」と言われるミョングクがとびきりの笑顔を作って入っていく場面が切ない。ジョンヨンも職場では後輩からかっこいいなんて言われている。外からは分からないということだ。

「おれは警官だ」が口癖のホン警長(ユ・ジェミョン)は「国のために尽くしている」と言い切り、血まみれの事態に女が警察を呼んでと頼むも「おれがそうだ」と聞く耳を持たない。海辺の一角に、自分が国だと思っている奴と資本(釣り場)を持っている奴、彼らの女、「前科者」や「被疑者」だから言うなりになるしかない(ところに目をつけられ雇われている)奴らがいて、この共同体が子どもを搾取している。彼らは虐待しているミンスがどこの誰かということには全く興味がない。ただただ見たくない、知りたくない一心から隠蔽というにはあまりにお粗末なやり方でジョンヨンを追い払おうとする。

釣り場の主人と警長の「お前、彼女(ジョンヨン)の心が分かるか」「おれは自分の心すら分からない」「おれもそうだ、でも俺達は生きていくしかない」とのやりとりから、彼らも自分達をジョンヨンいわくの「人間じゃない」存在だと認識していることが分かる。しかしそれは警長の言う「何千人も客が来たのに誰もあいつに目をとめなかった、悪いのは俺達だけじゃない」に易々と相殺されてしまう。「人間」がいないからますます「人間」が減る。映画を見ている私達もこの共同体の一端なのだ。

映画の終わり、ジホとジョンヨンの「行かないで」「すぐ戻ってくる」「約束して」「ありがとう」(「ありがとう」?)に、そうだ、死に物狂いの母親を描くこの映画の通底にはずっと保護者を求める子どもの叫びが流れていたと気付く。その後、そこだけ泥の付いていない小指の爪に、更にそのことを確認する。最後に出る原題(「わたしを捜して」)はチラシの文言と対になっているようだが、息子のユンスが実際に口にするわけではない。子どもはものを言えないから、大人が、ひいてはこの映画が代わりに言っているのである。

週末の記録


週末のデザート。
パステルの東武百貨店池袋店限定、スイートポテトのモンブランプリン。甘くてゴージャス。
同じく東武で開催中の秋の大北海道展にて買った、KINOTOYAの焼きたてチーズタルト。ふわふわで美味。