パブリック 図書館の奇跡


「あなたは本が好きですか、人が好きですか、もしそうなら図書館員に向いています」というオープニングにそれなら私も向いている、いや自分を過大評価しているだけか、図書館員とは一体何だろうと見始める。あらゆる人、という箇所でふと、「ホームレス ニューヨークと寝た男」(2014)を見た時、エキストラの仕事に出かける前に店頭のガラスに髭を映して剃っている姿にこういうことのために家を貸したい、でも怖いと考えたことを思い出し、そのためにあるのが…と思ったところに「The Public」と原題が出る。

昨年見たワイズマンの「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」とこの映画とは、確かに同じ「アメリカの公共図書館」を描いている。館長(ジェフリー・ライト)の「図書館員は市民の知る権利を守るために命を賭けている」とのセリフはあのドキュメンタリーの内容に合致する。ワイズマンの映画同様、ホームレスの来館をめぐってその権利と別の権利の狭間で苦悩している。全く悩まないのが市長候補のデイヴィス(クリスチャン・スレイター)で、彼の決め台詞は「法と民主主義を守る」(そして「前例を作りたくない」!)。そのように死んだ「法」は暴力の言い訳にしかならない。法をどう使うべきかって、彼と警察の交渉人ラムステッド(アレック・ボールドウィン)を前にした図書館員マイラ(ジェナ・マローン)が電話を掛けてきた母親に「修正第4条の権利を侵害されてるところ」と言う、あれが正しいんだろう。

私にはこの映画の根幹は、図書館内の彼らがしているのは「生きる権利を求める平和的デモ」なのに、外にいて力を持つ者はそのことを直視しようとせず、他の人々にも見せまいとする、ということに思われた。当日の朝に寒波による死者が出ることや、図書館において最も大きな責任を負う館長が、彼らを追い出すなら代わりの場所をと口にしても聞いてもらえないと知るや拳を作りネクタイを外して仲間に加わることなどからもそれが分かる。切実な希求が無視されている。私達は自分が声をあげることに加えて、誰かが声をあげていたら意図をしっかり掴まなきゃならない。

予告を見る度エミリオ・エステベスの眼鏡姿が印象的だったものだけど、映画を見てみたら、眼鏡は話に関わるだけじゃなく比喩でもあった。冒頭流れる、「本を燃やせ」と始まる「Weaponized」を歌っているチェ・“ライムフェスト”・スミス演じるホームレスのビッグ・ジョージに、スチュアート(エステべス)は自分の眼鏡を譲る。ここで私達は、誰かに何かを教えてもらったり機会を得たりということが無ければ周囲は見えず、そうなると人はやがて見るのが怖くなると思い知るのだ。

前監督作「星の旅人たち」の時にも思ったものだけど、エステべスの映画には鈍臭いというか古臭いところがある。本作でそれを感じるのはまず彼演じるスチュアートと隣人アンジェラ(テイラー・シリング)のセックス(を示唆する)シーンだろう。振り返るとあの場面もこの場面も確かに必要だったけど、あれだけは今この時代に要らないよね!

白鳥ジャパン Vol.8


三遊亭白鳥「流れの豚次伝 第8話」
 (中入)
三遊亭白鳥「流れの豚次伝 第9話」
 (7/17・なかのZERO 小ホール)

久々のホール落語、超楽しかった。白鳥さんもとても楽しそうだった。何をもってそう判断したかって、随所からだけど、このギャグが受けてあのギャグが受けないとはね、無観客だとやっぱりそういうの分かんないもんね、などと言うのには、配信の形態にも色々あるけれど、自作の上で高座に掛けつつ練っていく白鳥さんのようなタイプの噺家さんにはやはりこれがいいのかと思わせられた。

4月開催予定だった前回が中止になったため、予定変更で「流れの豚次伝」はこの会では完結せず。第8話は名古屋が舞台なので、夏の帰省代わり…にはならなかった、地方色ゼロ(笑)元より白鳥さんの噺は全てがそうだけど、生まれついての強者に対する弱者の話なんだとつくづく思う。オールドスクールだけどね(マリーとお菊を間違えるのは女性キャラがステレオタイプだからでしょう、「落語の仮面」のように女性が主たる作品の場合はそうはならないけどね)

それにしても「(後輩)に『師匠のは、ギャグを取り去ればいい噺』と言われた」とはお約束の自虐ギャグだけど、あれだけ本筋とかけ離れたネタをがんがん入れても全然気にならないんだからやっぱりうまいんだと思う。芸人の芸にお金を払えるとは幸せなことだ。

平日の記録


同居人が、ドラマ「愛の不時着」とコラボレーションしたSoohyangのリ・ジョンヒョク(演・ヒョンビン)キャンドルを買ってきてくれた。とてもいい匂いがする。つけてみたいけれど、つけると無くなってしまうのでしばらくはと飾って眺めているところ。


初めてのお店、卵つながり。
新宿西口に出た際、開店のニュースに行きたく思っていたヤクンカヤトーストへ。初めてなのでひとまずカヤトースト・バターと温玉とコピの標準セットを注文。卵をのせて口に運ぶのが難しかったけど、楽しく食べた。
池袋ではハレザに移転したeggにて、こちらも看板メニューのエッグロスコ。卵というよりブリオッシュのバターの味わい、それから添えられたケールのソテーが美味しくてびっくりした。

透明人間


「透明人間」なんて何だか気持ち悪くて扱った作品をこれまで見たことがないので比べられないけど、この映画は面白かった。でも目がくたびれた。見てくるだけ見てくる卑怯なやつをこっちも見てやると目を凝らしまくるんだから、そりゃそうだよね。二度と見たくない。

セシリア(エリザベス・モス)がスーツを見つける場面、ほんのひととき、スクリーンに古のSFの匂いが充満する。しかし本当にほんのひとときで、考えたらこういう発明って映画じゃろくなことにならないよなと思ってしまった。「ロマンチック」と呆れて言いたい。

初めて「透明人間」が目に見えるのは天井裏に上ったセシリアが観客の予想していなかったあることをした時。その策をこちらに読ませないのはショックを与えて映画を面白くするためだろうけど、私には、しばらく後にやはりあることをしていたと判明するくだりも含め、彼女の「考え」は彼女だけのもの、という表現に思われた。ここから突如映画が面白くなった。

映画の序盤、セシリアはエイドリアンの弟トムに「彼は私の考えさえも支配しようとしていた」「別れようと考えていたら、口火を切る前に絶対別れないと言われた」と打ち明ける。頭の中さえ見られ支配されていたということだ。これはそこからの脱却、加えてそれを逆手に取って(エイドリアンにとっても、見ている私達にとってさえも)復讐&生存する話なんである。

このことを考えた時、最後にセシリアが鞄の中身を見せるのは(あれ、見せてるよね?)私には、信頼している相手には自分の考えを明かす、明かしておきたいという気持ちの表れのように思われた。

平日の記録


できたてのカフェ。
池袋ショッピングパーク内にカルディのカフェ、カルディーノがオープンしていた。早速オリジナルコーヒーと、注文してから揚げるという店内限定のあんドーナツを注文。間抜けな写真だけど味はなかなか。
銀座ロフトに期間限定で出店しているコスタコーヒーではホワイトフラット。話に聞いていた通り美味しかった。

マルモイ ことばあつめ


「韓国は第二次世界大戦後に独立した中で自国の言語を取り戻した唯一の国である」。何てすごいことだろうと思う。次に韓国に行ったら、映画の終わりに紹介される実際の辞典が所蔵されている国立ハングル博物館を訪れてみたい。できれば寄付など何かしたい(昨年訪れた済州4.3平和公園へは、帰国後に同居人がささやかながら寄付をしてくれた)。

劇場の後輩の下手な呼び込みに「棒読みだな」と手本を見せるキム・パンス(ユ・ヘジン)は、肉体的には言葉の達人である。作り話で周囲を楽しませたり、知らない人には「中国語?」と聞こえる済州島の方言の特徴を一度で掴んで披露したり。言葉の定義は出来なくとも、朝鮮語学会唯一の女性メンバーである(映画の終わりに挿入される実際の写真によると確かに数名いたようだ)ユ・ジャヨン(キム・ソニョン…「愛の不時着」の人民班長!他のドラマでも見るけれどスクリーンでは初めて)いわく「なんとなく的を射てる」。
ユ・ジャヨンの話を何とはなしに聞き流した後で、娘スンヒと一緒の車内で「そういや(『내(ネ・私の)』じゃなく)『우리(ウリ・私達(の))』と言ってるな、『クルマ』いや『차(チャ・車)』!」と自分の使っている言葉について意識し始めるのが面白い。ちなみに本作のテーマとも言える「우리」は以降何度も出てくる、例えば処分を命じられていた郵便物を救ってくれた局員?が「私達も朝鮮人」と言うように。

見ながらつくづく思ったのは、抑圧されている人間は持てる力を出し切れないということである。代表として追い詰められ冗談も言わなくなり、「怪我をしている人を見たらまずどうしたのか聞く」ことすら出来なくなってしまった(チョ先生は口にできるのだ、年長者だから!)リュ・ジョンファン(ユン・ゲサン)を始め、やりきれずこれまで以上に酒に走ってしまう者、家族の命と引き換えに仲間を売ってしまう者、仲間の皆を疑いの目で見てしまう者。保身のため公聴会に参加できない教師達だってそう(私がその立場なら出ていけただろうか)。リュ・ジョンファンの父の言う「十人の一歩」には非常な困難が伴うのだ。
それじゃあ何が大事って、この映画の返答はまず交流である。命を賭けていながら同じ街に生きる者達を見落としていた学会のメンバーと詳しいことは分からないけれど言葉と共に生きてきた者達の出会い、キム・パンスいわくの「14人の一歩」は西部劇ふうに面白おかしく描写されていたけれど、振り返るとすごい場面だったと思う。

チア・アップ!


キャロル・キングの「Bitter with the Sweet」にのせてダイアン・キートンがスバルのワゴンを運転するオープニングタイトルに面白いキートン映画の匂いを嗅ぎ取っていたら…尤も今世紀に入ってからの彼女の主演映画は大体面白い、お金持ちの話ばかりだけどね…やはり面白かった。キートンらのチアリーディングを見た老若男女がそれを真似て楽しそうに踊る映像で映画が終わるのに、ごく普通の高齢女性の活動がこんなふうに皆に影響を与えることがもっとあれという思いを感じた。よくあるタイプの映画だけど、楽しいし価値がある。

まずはガールズムービー、特にキートン演じるマーサとジャッキー・ウィーヴァー演じるシェリルの友情ものとして楽しい。「男性が引っ越してくればと期待してた」が第一声だった隣人シェリルの(これだって全然、仲良くなれそうなセリフだけど!)「女友達もいいね」。始めの晩は迷惑千万だったのが、マーサが電話に出ないとなれば「風呂場で倒れてるかも」と夜中にやってきて、「会いたかった」となるまでの似てない者同士の付き合いが始まる。孫の通う高校で代理教員をしているシェリルが生徒のクロエに「資格はあるんですか」と問われた時の返答がいい。

以前にも書いたように、団塊世代の私の母が教員になったのは大学を出ても男と同じ条件で働ける堅実な職が他に無かったからで、国が違えど通じるところはあると思うから、マーサが「元教師」と言う裏にはそういう事情があるのかもと想像する。アリス(リー・パールマン)からチアへの参加を夫に反対されていると聞いた時の反応にもそうした考え方の根が窺える。練習再開時の鏡の前でのワークショップのような一幕には彼女がどんな教師だったか想像させられた。「タッチ・ミー・ノット」でもつくづく思ったけれど、ああいうワークショップは安全安心が第一で、ああいう場があることが羨ましい。

前述のアリスの「夫に『俺が死んだら参加していい』と言われた」から場面変わって夫の葬式という流れには笑ってしまったけれど(演じるリー・パールマンの実際の夫がダニー・デヴィートであることを考えるとちょっと面白い、妻殺しの映画の印象が強いからね)、このくだりやヘレンを始終見張り管理している息子への女性達の態度などからは、マーサが高校生のベンに言う通り「人生は短いんだから」、いや確かにそうなんだけど、特に高齢女性は我慢して何かを待つのをもうやめようというメッセージを勝手に受け取った。マーサがベンに車の運転を教えるのに縦列駐車からの発車で始めるといういきなり加減もよかった。