フォードvsフェラーリ


最後の方は悲しい気持ちになった。ゴールの後、大勢とは逆の方向に歩いてゆくキャロル・シェルビー(マット・デイモン)とケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)の姿は、フォード社副社長レオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)の言う「純粋な」…この場合はチームでなく自分のことしか考えない…人間が慣れないことをしても結局は資本主義の大きな流れに飲み込まれて消されてしまう、そのことへのささやかな反抗を表しているように思われたから。尤も私は「人より速く走ったから何なの」の人間だけども(「栄光のル・マン」より)。

最初と終盤で繰り返されるシェルビーの「マシンが消え自分の精神と肉体だけが進んでゆく」(を体感させたいんだろう、この映画の走行シーンは)には、それを得るためには大金が要るが一握りの人間はそこから遠く離れた場所へ行くことができるといういわば矛盾を感じた。世の中にそういうことってままある。世の中がそうであるように複雑な話なのだ。

事前に「24時間戦争」(2016年アメリカ制作)を見た際、シェルビー・アメリカンの面々が口を揃えて「楽しい会社だった、いたずらばかりしてた」と言っていたのが印象的だった。映画の序盤、道行く女の子達に花火をけしかける場面に男の言ういたずらってやっぱりそれかと思っていたら、そういうわけではなく、本作の「やんちゃ」は全てシェルビーがケンを走らせ勝たせるために行うものなのだった。ビーブを閉じ込めフェラーリ側のストップウォッチを盗みナットで騒動を起こさせてと、この要素だけ奇妙に現実離れして見えた。

映画の序盤、背景(フォード)と前景(シェルビーら)を繋ぎ私達を話に誘ってくれるのがジョン・バーンサル演じるリー・アイアコッカ。この映画は複雑な世の中をそのまま映し出すことには成功していないけれど、どこにも足の着いていないような彼は魅力的に感じられた。2世にアイデアを出すよう申し渡され、三年不振だったのをそうだと思いついていそいそプレゼンし、騙されたと分かるもめげずに打って出る。イタリア系の彼が買収を「マフィアが自由な女神を買いに行く」(同僚いわく「逆じゃないのか?」)とたとえるのが面白い。

それにしても口が上手いのはアイアコッカよりシェルビーで、日曜日のスピーチに始まり2世の前での「今年も又あなたが私を信頼することをフェラーリは恐れています」!「24時間戦争」では64年のル・マンにおいて既にフォードが速さについては実証したと語られていたが、本作ではそれを彼のセリフにほぼ任せているのが上手い。しかし、66年に至るまでル・マンで完走したことがなかったフォードにとって重要なのは耐久性だったはずで、その勝利をシェルビーとケンの話にするには、前者が後者を「これは彼が作った車です」と推薦しまくるだけではちょっと弱い気もした。

平日の記録


コーヒーと甘いもの。
ニュウマンに昨年末に開店したRoasted COFFEE LABORATORY / HI-CACAO CHOCOLATE STANDのスタンドにてちょこっと休憩。ラズベリーのブラウニーが美味しかったから、他の種類のも買ってみたい。
人形町に出た際には、ユニゾンコーヒーでカフェラテとキャロットケーキ。酸っぱめのチーズクリームが合ってこれまた好みだった。

パラサイト 半地下の家族


昔、とある芸能人が毎日数時間入浴するという話題に触れて、災害時にはどうするんだろうと言ったらそういう人はそういう目に遭わないんだよと返されたものだけど、階段を下りた息子ギウ(チェ・ウシク)の「(大学生の友人)ミニョンだったらどうするかな」に対する娘ギジョン(パク・ソダム)の「こんなこと起こらない!」がまさにそれなのだ。

(以下少々「ネタバレ」しています)

「運転手」キテク(ソン・ガンホ)が「家政婦」チョンソク(チャン・ヘジン)の尻を掴むのは、普段と違う「上品のふり」にそそられたからと思われる。パク(イ・ソンギュン)と妻(チョ・ヨジョン)も逆、逆というからにはつまり同様で、その言葉は使うなよ、うちの品が落ちるからな、の「カーセックス」と「パンティ」にこそ欲情する。言ってみれば格差に性欲が生まれるということだ。

印象的だったセリフは地下暮らしの夫が口にする「老後は愛情で生きる」。例えば今の日本政府にとってみたら、何て都合のいい認識だろう。選択肢のないそれは最悪である。この言葉の背後に映るのは地下夫婦の枕元の使用済みコンドームの束で、穿った見方をすれば、窓の無い場所では格差に性欲を抱く余裕すらないのだと言える。

それにしても後半、映画ってこんな色々でもって飽きさせないようにする必要があるのだろうかと思ってしまった(そりゃ好き好きの問題だろう、でおしまいだけども)。例えばこの映画の「計画」は「家族を想うとき」の「努力」と通じるけれど、そちらがあの一場面しか出てこないのに対し「計画」は何度も上手い具合に使われて「キーワード」のようになってしまう。例え映画が結局は半地下に終わっても、冒頭のように身に染みてはこないのだった。

三連休の記録


作ってもらった料理。
お雑煮のおつゆの最後を使ったあんかけ焼きそば。先日もらった生胡椒といつもは食べる直前に掛けるはばのりを予めあんに混ぜ込んだのが特徴で、初めての味わい。合っていた。
塩麹を使ったぶり大根は下処理の後に麹と水で煮ただけだそうだけどとても美味しかった。その他のメニューは鶏団子と春雨と青梗菜のスープにきゅうりとわかめの酢の物。わかめだけ私が担当した(笑)

リンドグレーン


映画は読者である子ども達からの手紙を開封するアストリッド・リンドグレーンの後ろ姿に始まる。カセットテープに吹き込まれた「なぜ子どもの心が分かるのですか、子どもだったのは昔なのに」の後に映るかつての彼女(アルバ・アウグスト)は16歳。教会で、帰りの馬車で楽しいことを空想し、家で家畜の世話を手伝い、ダンスパーティに出かける。子どもと大人が入り混じった時にある。

三つ編み姿のアストリッドが激しく踊ったり夜道で叫んだりする姿には見覚えがある。ものを書く女性の映画の冒頭にままある、いや私の中にもあった、人間を大人の女という型に押し込めようとする社会の抑圧への抵抗である。愛し合い子ども達をのびのび育てる両親の元において仲良しの兄グンナルにはその必要がなく、当時も数年後に彼女が我が子ラッセを泣く泣くコペンハーゲンに置いてきた冬も、変わらず妹たちとスケートをして遊んでいる。

(実際には、例えば「ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン」によると彼女はある時に子ども時代が終わったと気付き髪を切り友人らとジャズダンスに熱中するようになったそう、つまり子どもと大人が混じっていた時など無かったし、リンドグレーン氏と結婚して主婦になるとラッセがくたびれ果てるほど、子ども以上に日々体を使って遊んでいたという。この映画は前者は変更し後者のずっと前で話を切り上げている、そこに主張を見る)

社会に出たアストリッドには妊娠という重りがついてしまう。30以上も年の離れた編集長が彼女に好意を抱く切っ掛けとなるのは、妻に責められた憂さ晴らしに付きあわせたケーキとコーヒーの席での「流産は女性には耐えがたい痛みだろう」への「男の人にも同じだと思います」である。兄よりも門限が一時間早いことにつき母ハンナ(マリア・ボネビー)に「神の前では男女平等なはず」と訴えていた彼女の精神がここには表れているけれど、妊娠出産については決してそうではないことが、ひいてはそのようなことが世の中にはたくさんあるということが、この映画には描かれている。

当時、少なくともアストリッドの故郷において女性の短髪は忌憚されていたが、ストックホルムの秘書学校にやって来ると周囲は髪を短くした女性ばかり。それぞれがどのような心情、事情で髪を切ったのかと想像する。その中には妊娠し「父親の名を明かさなくてもよい」コペンハーゲンで出産した仲間もいた。この話題の切っ掛けとなる女性弁護士を始めデンマークにおける養母マリー(トリーヌ・ディルホム!)についても描写が表面的なのでよく分からないのが残念だが、死期の迫った彼女の手をアストリッドが握る場面は印象的だった。

この映画では鉄道がアストリッドの境遇を表すのに使われている。編集長が彼女に初めて任せる仕事は鉄道開通の取材で、大人の男に混じって汽車を初体験した彼女は「話に聞くアメリカと違いここでは景色を楽しむことができる」と見事な文章を書いて認められる。しかし彼女が実際に汽車に乗るのはスキャンダルを避けるためにストックホルムへ追いやられる時や隠れて子を産むためにコペンハーゲンへ移動する時、お金も時間も無い中で我が子と会うための行き帰りの時である。車窓など全く映らない。王立自動車クラブ(リンドグレーン氏はここの偉いさん)でのパーティで自棄になって飲みながら「車に乾杯」と叫ぶのが奇妙な符号に思われる。

こんなわけで、あたしはほんとはもう大きいのか、まだちっちゃいのか、わからなくなっちゃいます。まあ、ある人は大きいと思っていて、べつの人はちっちゃいと思っているんだから、きっとちょうどいいくらいの年ごろなんでしょう。(やかまし村の子どもたち)

平日の記録


茶店メニュー。
西新宿に昨年オープンした珈琲西武2号店はかなり居心地がいい。1号店では見た記憶のない西武シフォンのセットでちょこっと長居。
神保町ブックセンターではフルーツサンドとコーヒー。サンドの中身は苺とバナナ、パンが乾いてたのが少し残念。でも本が読み放題なんだから楽しい。