少女は夜明けに夢をみる


オープニングは黒いインクとローラー、少女更生施設入所時の指紋採取と登録が行われている。叔父の性的虐待が原因で家出してきたハーテレが隔離室に入れられる音と同時に、少女の誰かが題字を書いたと思われるタイトル「Starless Dreams」と、監督の名前メヘルダード・オスコウイに、自分も少しでも彼女達と同じことをしようと考えたんであろうと想像される、彼の指紋が押されている。

被写体である少女達からの働きかけがとても大きく、それらがそのまま使われている。音声のマイクを「歌いたくなる」と掴んで歌い出すのは作中何度も彼女達ががなるように歌う「私にも若い頃があった、でも今は年老いてしまった」という曲。カメラの前だからと互いにしてみせるインタビューの内容は「面会に誰もこないね?」「出所したらまた盗みをする?」。答える方は実に普通に答えてみせる。自分のことを率直に話したいという気持ちがあるのだと思う。

監督に「僕に16の娘がいると聞いて悲しそうな顔をしたのはなぜ」と問われた「名なし」は、「私はゴミみたいに扱われているのにその子は愛されているから」と涙を浮かべる。彼女が監督と娘の何を知っているというのか、いや、自分に普通に接してくれる大人の男性なら娘をきちんと世話しているに違いないと思うのだ、そして確かにそうだろう、その気持ちが悲しい。

ハーテレの夢が始めの「死ぬこと」から最後に「生きること」に変わるのは、「家族が仲良くなったから」。家族の元へ返して欲しくないからと自らの事情を話しているのに面談直後にスタッフが家に電話をするのには驚いたが、結果、母は娘の言うことを信じ彼女は笑顔で出所する(その後どうなるかは分からないし、これは「ドキュメンタリー」だから受け入れられる展開である)。悪い家族から子を保護する制度が無さそうなこの社会において、彼女達は家族と否が応にも繋がっている。そもそも迎えがなければ出られないのだから。

なぜ男女の命の重さに差があるのか、なぜ男を殺した時の方が女を殺した時より罰金が重いのか、なぜ子どもを殺しても父親は罰せられないのか、子が父の所有物だからか、なぜ女だけ共犯でも捕まるのか、なぜ神をイメージする時も男なのか。矢継ぎ早に質問された聖職者は「『我々』を世の人々は決めつけた目で見るが、大切なのは社会を平静に保つこと」と返す。納得できる答えが得られないと知るや、始め集まっていたのが部屋のあちこちに散っていく少女達。「名なし」は「(がんばっても)社会には勝てない」と口にするが、隅々末端にまで社会の不平等が染み込んでいることを感じる。

「名なし」は冗談めかして「うちの家族の話を映画にすればいい」と言うが、ここに飛び交っているセリフの数々は確かに私達がフィクションで楽しんでいる類のものだ。盗みをしたのは髪の本数くらい。裁判に行ってきたところ、罪状は不貞行為に売春に強盗、反省したふりをしてやった、肉をいっぱいちょうだいね。銃を持つのは慣れてる、本当に嫌いな人しか撃てないけど、おじさんならいいかな。「脚本家にも書けない」と言いたくなるじゃないか。真実はこうなのだ。

池袋演芸場11月中席昼の部


橘家文蔵時そば
橘家円太郎「浮世床
丸山おさむ(声帯模写
柳亭燕路粗忽の釘
柳家小里ん「睨み返し」
米粒写経(漫才)
古今亭志ん橋「出来心」
 (中入)
隅田川馬石「元犬」
柳家小さん「勘定板」
ダーク広和(奇術)
柳亭こみち「寝床」
 (11/17・池袋演芸場

週末の記録


二子玉川より向こうに行ったことのない田園都市線に乗って渋谷から30分、オープンしたての南町田グランベリーパークに行ってみた。飲食店はどこも長蛇の列だったので、スギモトの牛めし成城石井のイートインメニュー「自家製ソフトクリームのクランベリー生プレミアムチーズプリンパフェ」を買って芝生に座って食べる。これがなかなか楽しかった。
帰りに東横線に乗り換えて、自由が丘のバゲットラビットへ。ブールとバゲットに、初めて買ってみたアップルパイ。翌日のおめざにしたら、本当に美味しかった。

ランド・オブ・ホープ


フィンランド映画祭2019にて観賞、2018年/フィンランド/マルック・ポロネン監督作品。今回見た「アウロラ」(感想)と本作、舞台は全く違うけれど共にセックスにおける女の意思と逃避のための酒の害悪がはっきりと描かれていた。立ち退き要素があるのも同じか。前者で主人公の友人キンキーを演じていた、飲み屋で靴を脱いで臭いを嗅ぐ姿が印象的だったオーナ・アイロラがこちらでは主役。

この映画は北カレリア地方が舞台だが、ちょっとした自然の描写や主人公アンニが悲嘆にくれて実家に帰るくだりなど、同じユーロスペースの「アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画」特集で見た「夏の夜の人々」(1948年/ヴァレンティン・ヴァーラ監督)が脳裏をよぎった。尤も本作の終盤、激しい雨の後にアンニが窓を開けて「ここが私の生きる場所だ」と悟る場面は、「夏の夜の人々」の始めに窓の外から内にカメラが引いていく鮮烈さにはかなわないけれども(あちらは元より彼らの場所だから「引いていく」のだと、こじつければ言える)。

冒頭、使用人かな、と思いきや一家の長に朝食の給仕をする母と娘達であった。パン職人だった父親は裕福な生まれの母の資産を元手に会社を起こし、父として経営者として君臨している。その抑圧にうんざりしていたアンニは、ソ連との継続戦争を大きな傷を負って生き延びたヴェイッコと馬(名前を忘れてしまった、何だっけ…)と共に北カレリアの開拓地に移り住む。二人きりで裸になって水に飛び込む彼らの姿には、家にはなかった自由がある。しかしこの土地には人間のためのものが何もないという過酷さと、そうは言っても存在している共同体における多少の窮屈さとがある。そこのところをこの映画は、シンプルなやり方、全ての登場人物の根に善意があるという設定で乗り越えている。

遅ればせながら今年、フィンランドの男達がカメラの前で語り合う「サウナのあるところ」(2010)が日本でも公開されたものだけど、本作には、サウナも使い様で抑圧の種になるということが描かれている。父親はアンニを「男のつもりか」「商談はどうする、サウナで飲みながらやるんだぞ」とオフィスから追い払う。ヴェイッコは思いがけず再会した戦友を、その場にいたアンニに断りなくサウナに誘う(「一言聞いてほしかった」「入ったら掃除してね」…と言うのだから、サウナの掃除は彼女が担っているか、あるいは汚れを彼が気にしないのだろう)。「お前は自分ちのサウナにも自由に入れないのか」なんて戦友のセリフ、陳腐な言い方だけどどこも同じだと思わせられる。

スペインは呼んでいる


あるネタの最中にロブ・ブライドンが「好きな音楽家は」と問われてブルース・スプリングスティーンと返すのに、「Blinded by the Light」(感想)への彼の出演につき、悪目立ちしすぎだろ、何してるんだよと笑ってしまったものだけど、実際ファンなのかもと思い直した。

「今年は才能ある人を大勢失った」とボウイの名前が出てくるのに、いつの話だよ!と思ってみればこの映画、2017年制作なのだった。ロブの「彼はラジオ番組に出たとき僕の名前を思い出せなかった、でも頭には僕の顔が浮かんでいたはずだ」「死んでから彼のtwitterをチェックしてみたら僕をフォローしていた、彼が僕をフォローした瞬間があったんだ」(くだらない…けど気持ちは分かる・笑)からの二人の物真似は結構面白い。

あなたを抱きしめる日まで」に次ぐ自作に新人の脚本家を加えるようエージェントに言われたスティーヴは、「『彼はホットで前途有望です』って、おれは今こそ最高なのに」と精神的に不安定になるが、後の息子とのやりとり…恋人の妊娠につき父親の言うことよりも「二人の問題だから」とパートナーとの関係を優先する息子との会話を見ていると、若い世代に譲った方がいい部分もあるよなあと思わせられる(これはこの番組内のスティーヴに対する考えだからね・笑)

「君はハムレットよりリア王に年が近い」、それならばと独白をやってみせるも「『バーナビー警部』で娘を亡くした父親みたいだ」と言われるスティーヴだが、彼の顔しかほぼ映っていない数分間、この作品は突然、「The Trip」から見慣れた幾多の映画(その中にはマイケル・ウィンターボトムの本シリーズ以外の映画も入っている)の中に滑り落ちる。「The Trip」が始まって編集劇場版が公開されたのが2010年、二作目が2014年、これが三作目なわけだけど、この十年でこの手の作品は配信で幾らでも手軽に見られるようになった。そこへ来てのこのカットや終盤の彼の一人旅部分は、私には随分踏み込んだ味変のように感じられた。

平日の記録


チェーン店のホリデーメニュー。
ドトールのいちごとラズベリーのミルクレープは少し前から横目で見てたものだけど、そろそろ食べ頃かなと(笑)
タリーズでは初のパリブレスト。これは美味しくなかった、タリーズからしょうがない。
スターバックスではメリーストロベリーケーキミルクにエスプレッソショットを追加したものとホリデーチーズタルト。ナッツの入ったタルトがよかった。スタバではホリデーミュージックが流れているから気持ちがあがる。

アウロラ


フィンランド映画祭2019にて観賞。2019年/フィンランド/ミーア・テルヴォ監督作品。

映画は朝方、男の部屋から裸で逃げるように帰るアウロラ(ミモサ・ヴィッラモ)の姿に始まる。よくあるオープニングだ、この一幕から彼女がセックスを、敷衍してその他のことも自分の意思で行う人間だと分かる…んだけども、昨今果たしてこれって男性にも分かるものだろうかと考えるようになった(そうしたら中盤彼女のセリフによって念押しされるのだった、作り手も同じように考えているのだろうか)。その後の、店で友人のキンキーが靴を脱いで臭いを嗅ぐかと思えばアウロラもブーツを脱ぎストッキングを被ってふざけるなんて場面には、まだまだ映画で初めて見る素晴らしい画というのがあるものだと思わされた(尤も今振り返ると、この場面には若干の自棄がある)。追い出された店外でストッキングを履こうとして二人でもつれて転ぶ姿もいい。

映画の命はこうしたいわば(お話に対して)細部にある。例えばカフェでアウロラが難民申請中のダリアンの結婚相手の候補としてたまたまそこにいた女性に声を掛ける場面。ここで既に場内には(私には不思議なことに)笑いが起こったものだが、映画の作り手は彼女のぱっと見などではなくその言動が、ダリアンが自分には合わないと判断する理由なのだときちんと述べる。例えば「フィンランド人には見えない」ユハこそが、水着をつけたままサウナに入ってきたダリアンに「サウナを汚すな」「郷に入れば郷に従え」と怒る場面。冒頭の彼の言動の裏にある心情がここで裏打ちされる。

終盤、ダリアンが別の女性と契約結婚することを受け入れられないアウロラが普段から依存している酒を飲みまくって我を忘れる、いや我を失うと表現するのがしっくりくるかな、その描写の強烈さに一瞬驚かされるが、これは冒頭「セラピーで人間関係を書き出してみたら白紙だった」と言っていた彼女の人生に(いや、キンキーやホットドッグ屋の店主など、この時点でも色々いるわけなんだけども)、一つの名前と同時に自身の最大の問題点が浮かび上がってきたということなのだ。意思でもって生きるだけでなく自分をコントロールすること、いわばビジョンの必要性。飛行場での最後のカットは、彼女が「それ」を手にしたことを示している。

冒頭、アウロラが帰宅した家に不動産屋がやって来て「一週間以内に立ち退いてくれ」と告げるが、見ながら本当に、かつて私が集めていた「立ち退き映画」が成り立たなくなったことを思わせられた。今や人生において家がない時間があるのが普通なんだもの。この映画では彼女の父親は施設に、自身は友人宅の後は老人女性のケアの仕事を得てお金持ちの家に、ダリアンの方は難民保護施設のスタッフ(一方で医師として働いている女性)の家に滞在することになる。「運がいい」と言うよりこうであれ、いや選択肢無くしてこうなるということがなければいいと思う展開だ。同時に話は少し変わるけれども、例えば日本語には「身を寄せる」「草鞋を脱ぐ」など一時期よそに住まうことを表す言葉が色々あるけれど、これらは時代によって意味が変わる、あるいはぴんとこなくなって違う言葉に取って代わられるに違いないなどと考えた。