レディ・マエストロ


1930年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にてデビューした女性指揮者アントニア・ブリコの実話を元に制作。映画の最後に出る文章を締める「0% are women」が、「私達が才能に性差はないと示したことをあなたは覚えているか」と訴えかけてくる。

厳しいことを厳しく描いた映画である。冒頭ウィリー(後のアントニア/クリスタン・デ・ブラーン)が部屋を出た後に「変な女だ」「でも魅力的だ」と言い合う男二人、見ているうちに女にとって男とはその二種類しかないのではと思われてくる。前者は美女でないなら無視し美女なら(「美しいまま底辺にいろ」と)口説き、拒否すれば潰しに掛かる。後者は性的に惹かれ合っても女の自分がやりたいことが結婚と子育てでなければ我慢を強いられるか結ばれないかのどちらか。そしてそのような男は前者のような男がいることを想像すらしない。

この映画では、恋愛にその人そのものが描かれているのではなく男女の恋愛に性差別そのものがシンプルに反映されている(終盤はためくアメリカ国旗からしアメリカの幾つかの面でもあるかもしれない)。端的に言うと女は「恋と仕事」の両方は得られないというやつだ。私が現在の女性誌やら何やらで「(ここではどちらも欲しいの意で使われる)恋と仕事」を強調されるのに辟易するのは欲望の限定に苛々するから、加えて「そうあるべき『普通』」を描く方が好きだからという理由だが、100年前のアメリカを主な舞台とする本作では妙にリアルだ。

ウィリーはピアノの演奏を聴いた男たち皆から「なぜ感情をこめないのか」とアドバイスされる。彼女は「私の感情なんて誰も気にしないから」と返すが、自宅で「(うるさがられるから)ピアノの弦に布を巻いている」というのには、持たざる者は感情を出すことが許されないということが表れている。彼女が作中最も感情を露わにするのはフランク(ベンジャミン・ウェインライト)から手紙の返事が来ない時だが、本作では二人の関係に性差別を託しているのだから当然だろう。ちなみに同様に、せざるを得ずしていることが比喩にもなっている表現に、ウィリーを助けるロビンがクローゼットならぬベッドルームに鍵を掛ける描写がある(演じるスコット・ターナー・スコフィールドはトランス男性なんだそう)。

アントニアがある男性(彼女の指揮につき、誉めている気で「目をつぶれば女だと分からない」と言うようなやつ!)に「コメディは終わり」と言い放つ場面があるけれど、この映画には笑えるところが一つもない。辛気臭いとかつまらないとかいう意味ではなく、明るく面白い映画だけれども、男子トイレで最悪の出会いをしようと二人の顛末はロマコメになりようがないし被差別者のサバイバルは笑えるものではない、という姿勢を作り手が選択しているから。尤も道が断たれそうになるたびに彼女が勇気と機知で一縷の望みにしがみつき登り続ける(ことができる)様は作り事のようにも感じられるけれど。あんな偉業はできなくとも少しずつでも登っていかなくちゃと思う。

平日の記録


ちょこっと久々のニュウマンにて、新しめのお店二つ。
いちびこのぷるぷるいちごオーレは手軽で甘くて美味しい。
森永製菓のTAICHIRO MORINAGAで期間限定との文字に惹かれて手にしたベイクドキャラメルは、見た目から想像できない味で楽しかった。他のお菓子も食べてみたい。

平日の記録


東京都写真美術館にて、展示室で開催中の「しなやかな闘い ポーランド女性作家と映像 1970年代から現在へ」。
これは楽しかった、長居してしまった。変な言い方だけど豪奢な学園祭のような雰囲気だった(豪奢というのは椅子などしっかりしてるから)。「DAVID BOWIE is」の終盤の部屋にも思ったものだけど、日がな映像が存在する空間があるというのがまず面白い。


次いで、ホールで上映中の「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」。
サバイバルもののアニメーションって私は案外見たことがなく新鮮だった。自分も巻き込まれているように感じるブリザードの描写が素晴らしい。それにしても、サーシャの祖父が「冬が私の権威を奪った」と記していたけれど、彼女の行程中にもブリザードの時に皆の気が違い晴れたらよくなっていたから、人間にとって寒さはやはり害悪だなと思った(笑)

サウナのあるところ


脚をあげている女の見られる映画は大抵面白いものだが、この映画もそれで始まる。サウナでくつろぐ、50年以上一緒の夫婦。夫が妻の背中を流してやるのとキスを最後に作中のサウナに女は現れず、以降は男達が一列に横並び、ロッカールームで向かい合いと色々な様子で話す、聞く映像が続く。狭い車内ならまず外から裸の尻を、内部のシーンは近くから撮るのでどアップだ。

一人の場合は喋る相手がいないので黙ったままの映像に自身のナレーションがかぶるのが面白い。フィンランドの男はサウナでは仲間に心の内を話せるという主旨のドキュメンタリーなんだから。彼らの語りはカメラ、あるいは映像内の自分に向かっているのか、それともサウナ自体に促されているのか。本作は作り手の存在を表に出さないタイプのドキュメンタリーだけれども、どうやって撮ったんだろうと興味が湧く。技術のことはともかく、カメラマンも裸だったの?とか(笑)

サウナのタイプは日本版のポスターに載っている電話ボックス型のものからプール併設のもの、自前の車に作られたもの、カフェの隣など様々。作中の話によれば軍にも大人数用のものから一人用のテント式のものまで色々あるそうだ。都会ではサンタのぼやきや家のない者の暮らし語りが繰り広げられる。こんなところで裸に、と驚いてしまうのは路面店の、まさに路面の椅子に座って休憩している姿かな(笑)

映画はサウナから出て服を身に着けた彼らが「リスの歌」を歌うのに終わり、「フィンランドの男達に捧げる」との文が出る。ふと、歌とはそういうものなのだと思う。上映前に客入れの音楽を聴きながらカウリスマキの映画にサウナのシーンがない、いやフィンランドの映画にサウナがあまり出てこないのはなぜだろうと考えたものだけど、映画とは服を着た人間の「裸」の部分こそを捉えるべきだからかもしれない(裸の時に「裸」なのはいわば当たり前)。逆にこのようなドキュメンタリーなら意義がある、実際を伝えているんだから。

カウリスマキといえば「フィンランドの北と南」の意識を私は「真夜中の虹」で初めて持ったものだけど、この映画でも出てきた、「祖父の『南の嵐はまだひどいか?』は祖母の機嫌は直ったかという意味」「金鉱で仕事しないかと誘われて北へ来た、南に未練はない」などなど。サウナの場面の合間に挟み込まれる一つ一つの映像も、男達にとって大事な風景なんだろうと思われた。

プライベート・ウォー


最初と最後を締めるメリー・コルヴィン(ロザムンド・パイク、映画の終わりは本人)の言葉は「恐怖を認めると行き着けない、真の恐怖は全てが終わった後に来る」。まず記者の仕事とは「そこへ行く」ことなのだと分かる。米軍がメダカか雀の学校のように記者を並ばせ「行ってよい場所」を指示する後ろでそんなもの聞かずにカメラマンのポール(ジェイミー・ドーナン)に声をかけ、ジムの会員証なんてものまで使って現地に乗り込むくだりが面白い。そして確かに彼女の恐怖は終わった後に来るのだと分かる。

ホムスまであと何年」とメリーの死に向かう作りにしたのはなぜだろう。今振り返っているのだということ、すなわち足場の存在がはっきりとはする。彼女の「個人の物語を書きたい」を返すように映画もメリーの行くところ行くところへ着いてその全てを描く。いかにもよく出来た話とそれを支えるリアルさでもって作られた作品が近年多いことを踏まえても、この映画を見ていると、戦地の場面にこまかなリアルさへのこだわりがあるなら彼女と男達のやりとりも実際にあったことなんだろうかと思ってしまう。「君は美しかった」と(近くにいて欲しいという気持ちからにせよ)言う元夫に対し瞼にキスするトニー(スタンリー・トゥッチ)、なんて描写にふと思う。

川べりに停めてあった自転車で帰ろうとする(彼女もそんな「普通の人」のようなことをするんだと思わされる)メリーに編集長のショーン(トム・ホランダー)は「君には見ることができるが僕らにはできない、君が見てくれるから僕らも見られる、君が信念を失ったらどうなる」と訴える。その線引きはシンプルに煙草で示され、禁煙のレストランとそんなことなど気にする余地のない戦場とが続けて描かれる。作中のメリーは「難しいのは人間性を信じる、人々が関心を抱いてくれると信じること」と言っていたけれど、あちらとこちらのとんでもない距離をてらいなく見せてくる監督はそれを信じて作ったに違いない。ともあれ私達が微力ながら出来るのは関心を持ち続けることだ。

週末の記録


国立西洋美術館で開催中の「モダン・ウーマン フィンランド美術を彩った女性芸術家たち」へ。
自画像含む多種多様な作品の展示は勿論、当時は世界でも珍しかった男女平等の美術教育についての解説も面白かった。男女別に裸体デッサンを行っていたそうで、女性モデルを描く男性達を女性のヒルダ・フルディーンが描いた作品など楽しい。撮影可能だったので、その絵と、お気に入りのヘレン・シャルフベック「フィエーゾレの風景」の写真を撮った。


法事を終えて、精進落としでお寺の近くの蕎麦屋へ。珍しいそばとうどんの合盛…をけんちん汁につけて食べた。だしが効いてて美味。
久々に寄ったソラマチでは、マリオンクレープを通りすがりに思わず限定メニューのスカイツリースペシャルを。何のことはない、生クリームが塔の形に山盛りになってるだけなんだけども、楽しく食べた。


法事の足で、東洋文庫ミュージアムで開催中の「漢字展 4000年の旅」へ。
「世界の文字マップ」と様々な文字が見られる展示物に始まり、そのうちの一つである漢字の成り立ちを貴重な品々でもって教えてくれる。愛知の地名に多い「杁」が水門を意味する地域漢字だとは知らなかった、確かにこっちじゃ全然見ない。


東武百貨店池袋店で開催中の「ぐるめぐり 秋の大北海道展」をぐるりと回って、プティ・メルヴィーユのくりりんかぼちゃソフトクリームを食べて、フラノデリスのビスケットサンド シーベリーを購入。
前者はよく知ったかぼちゃの味の安心感、後者は希少なシーベリーのソースが新鮮だった。

帰れない二人


顔、顔、顔のオープニングの後、21世紀と共に産声を…とは言わないまでも世紀末に生を受けたであろう子がふと目覚める。市街地から炭鉱の町に向かうバスを皮切りに三つのパート全てが乗り物で始まる(間にも絶え間なく乗り物が出てくる)乗り物映画だが、これだけ移動してもチャオ(チャオ・タオ)はどこにも着かない。思えばそういうものかもしれない。それに三部の幕開けとなる真新しい鉄道のホームを見て頭に浮かんだことに、何もない、あるいは何かができようとしている、あるいは何かが失われた場所であっても乗り物はそうでない場所と繋がっているものだ。

「恋人」との言葉が出てくるんだから恋が主軸にある話だが、私には恋愛もの、いや恋愛要素があるようにすら感じられなかった。あまりにも二人が「中国のある部分」としてあからさまに描かれているから。非科学的なやり方でその場を収めるのに登場するビン(リャオ・ファン)は、新しいことを始めんとする裏社会の人々が必要とするも表には出せない汚れ仕事を引き受け続けている。煙草から「健康的な」葉巻に移ることなく、彼を一心に思うチャオが…尤も彼女にも似た性分があるから彼を思うのだろうが…引きずられてそちらへ落ちる。

一部のディスコシーンは白眉だ。ふところの銃を落としたビンとそれに苛立つチャオのダンスでの会話、「Y.M.C.A.」から曲を変えるようビンが指示する、先のダンスに引きずられたかのようなパントマイム的な姿、「新しいこと」である社交ダンスの衝撃、汚れ仕事の話が着いた瞬間にホールが「Y.M.C.A.」に戻るタイミング。その後の「『実際の』Y.M.C.A.」の映像も圧巻で、ここに挿入したのも分かる。胸がつまって涙がこぼれそうになった。

二部は長江の流れとチャオが持つ水の入ったペットボトルで始まる。こんなにもペットボトルが重要な小道具として使われている映画は見たことがない。一人用の水であるそれはまるで、序盤に皆と共に「いつまでも仲間」と空にした杯の代わりのようだ。出所した彼女は常にそれを携帯し、女に危害を加える男達を殴り、自分を忘れた女を殴り、これが自分の酒と言わんばかりに飲み、数年ぶりに再会したビンに見せつけ、内地も内地の男の手に一瞬、自分の手の代わりに預ける。そして三部では、水は絵に描かれただけのものとなる。

恋愛ものには感じられないと言っても、「おれとの三年は長いか?」「どう思う?」から長い時間を経ての「私は今もあなたの恋人?」「どう思う?」、「何の感情もない」と答えるまでにとらねばならなかった時間、恋にまつわるやりとりの全てが確かに分かる、というか必要であることが伝わってくる。チャオに銃を撃たせるのにビンが松葉杖を手から放す姿が妙に色っぽいと思っていたら、終盤同じ場所で全く違う光景を見ることになる、あれにも参った。