平日の記録


まだまだ暑いけれど、秋の焼き菓子。
スターバックスのコラボシリーズ「おおつぼほまれ×マフィン バナナカカオチップ」は小ぶりで食べやすかった。
小田急百貨店新宿店内のビスキュイテリエ ブルトンヌでは、ガトー・ナンテのキャラメルバナーヌとアップル。しみじみ美味しい。

謝楽祭&鈴本昼席


台風接近中の日曜日、謝楽祭へ。円丈の手拭いを買ってサインをもらった。


屋台で買ったからあげと焼きそばを持って、鈴本演芸場9月上席昼の部へ。正直、今を生きているのはトリのこみちさんだけという感じを受けたけれど、楽しかった。

柳家小はぜ「道灌」
松旭斎美智・美登(マジック)
鈴々舎馬風(漫談)
林家正蔵お菊の皿
ロケット団(漫才)
古今亭文菊湯屋番」
柳家はん治「妻の旅行」
翁家社中(太神楽曲芸)
古今亭菊之丞「親子酒」
 (中入)
ペペ桜井(ギター漫談)
柳亭燕路「片棒」
柳家甚語楼「堀之内」
林家正楽紙切り
柳亭こみち天狗裁き
 (9/8・鈴本演芸場

フリーソロ


面白かった、ドキュメンタリーの普遍と特殊がここにある。お馴染みジミー・チン(妻のエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィと共同制作、兼監督兼撮影監督)の「僕らの撮影がアレックスに影響を与えることはないと自分に言い聞かせていた」(続く言葉は「断念するとは想定外だった」)に、もしかしたらあらゆる映画で隠されているのは撮る側の動機かもしれないと考えた。

撮影隊いわく「ロープの操作ミス一つでアレックスを殺してしまうかも」。殺すかも、殺されるかも…いや死ぬ瞬間を撮られるかも、と互いに思いながらの撮影は、そりゃあアレックスの言うように「人はいつ死ぬか分からない」わけだから全ての映画に言えるんだけれども、特殊が過ぎる。大体一番の「見せ場」でカメラマンが殆どカメラをのぞいてない(怖くてのぞけない)んだから(でもってその姿を他のカメラが捉えているんだから)。

「練習によって『可能』の範囲を広げる」なんて、やはり山映画には全てに通じることが描かれているなと思いながら見ていたら、アレックスは「それを撮影隊がいても…にまで広げる」などと言い始める。なんて愚直な、いやいい言葉が思い浮かばないな、そんなにしてやることはないのに、撮らせることはないのにと思ってしまった。「『寿命』まで生きる義務はない」と他人が考えるのは自由だけども、どうしても、命には在ってほしいと願ってしまうから。

上映前にジャック・マイヨールのドキュメンタリー(二年前のTIFFで上映された作品だそう)の予告が流れたのが面白く、そこで聞いた「完璧に計画しても(東京の教員用語で言えば「内心での実踏」というところか・笑)水中では想定外のことが起きる」を思いながら見ていたんだけども、フリーソロというのはまた全然違うんだなと分かった。マイヨールは日本文化に関心を持ち座禅などもしていたけれど、アレックスも「靴を履く時には刀を抜く侍のような気持ちになる」と言っていた。これもまた、少し違う感じか。

ヒンディー・ミディアム


この二時間強の、教育や貧困といった社会問題を扱いつつも一大叙事詩のような趣の新鮮さ…器用な観客でない私には見づらさにも繋がったけれど…は、私がインド映画を見つけないからなのかインド映画でもあまり無いタイプだからなのか。娘の受験のために名門小学校の受験範囲地域に引っ越す朝の妻ミータ(サバー・カマル)の「私が嫁いだ日より泣いてる」に、妻が家を出たんだから夫も出たってよかろうとふと思い、そこで引き込まれた。

オープニングに置かれた出会いの一幕から、ミータが「モダン」であること、自分の欲望に向かって邁進するタイプであること、その美貌に惹かれたラージ・バトラ(イルファン・カーン)がそれをかなえるために何でもするようになることが分かる。これがラストに繋がっているんだけれども、終盤の「くじ引き」場面で、彼らがそのようなことが出来るのはいわばくじに当たったからなのだ、生まれは選べないのだと思った。努力によって一代で成り上がったのだとしても、その足場もない人々がいるということが描かれているから。

始めに出る「フィクションです」には「今のインドではこのようなことが行われています」との含蓄がある。続く「動物は虐待していません、ネズミはCGです」が活きてくる辺りから映画の様相が変わる。「存在のない子供たち」の喜劇版とでも言おうか、低所得者層の入学枠目当てで貧民街に越してきた一家が言われる「あの人の身内?ああ結核で死んだっけ」「あの人の身内?ああデング熱で死んだっけ」が笑えるよう撮られているんだから。生き延びるため役人には逆らわず仲間内で喧嘩する日々に必要なのは助け合いだと訴えているところも「存在のない~」と同じだ。

この話における悪が肥える者達によるシステムであることは間違いない。デリー一の名門校はアファーマティブアクションにおける不正を告発した国語教師に「システムを正すには丁度いいだろう」と嫌がらせで仕事を回し、ラージに対しては警察もメディアも全部うちの卒業生なんだからと言い放つ。同じ親に訴えたところで動く者はいない。しかし話が終わってみれば「誰も行かないから寂れていく」公立学校が一つ救われており、個人の行動が人を、国を救うことに繋がることが描かれている。

週末の記録


金曜の夕方は待ち合わせて京王百貨店で開催中の秋の大北海道展へ。マルダイ水産の花咲蟹にウエムラ牧場の牛肉の握りという豪華なお買い物。どちらも勿論美味。
デザートにはベイクド・コンフェの北海道バターサンドイッチ。これは初めての味わい。


残暑の厳しい土曜は済州島で食べ逃したコングクスを新大久保のチャムナム家にて。いつまでも飲んでいたいスープだ。
映画やら何やらの帰り道、韓流ランドの中にあるマカプレッソでマカロン大人買い(初めて言ってみる、こういう時に使うんだな・笑)。どれも可愛い、よそのエリアの韓国マカロン屋さんにも行ってみたい。

おしえて!ドクター・ルース


「愛情深く真摯」「権威ある話し方を心掛けている」などと言われるルースの仕事ぶりがやはりまず素晴らしい。相手をしっかり見ながら話を聞き、シンプルかつ的確な内容を返す。映画はセックス・セラピストである彼女の現在の、あるいはこれまでの仕事を見せつつ合間に生い立ちを自身に語ってもらうという構成で、教育を重要視する彼女が自ら求め実行してきた勉強の他、人生全てが仕事の現場に繋がっていることを示してくれる。

映画はルースが50年以上住むワシントンハイツのアパートメントの一室に始まる(「寝室には監督を入れないで」)。いわく「有名になっても引っ越さないので驚かれたけれど、移民が多くて暮らしやすい」。少女時代よりスイス、イスラエルと「そこ以外には世界中のどこにも行き場がない」ゆえ強制移動させらてきた彼女にとって、「祖国から逃げてきた人を全て受け入れてくれる女神」のいるニューヨークは初めて自ら選択した場所だった。夫を説得し、ホロコーストにより教育を受けられなかった人への賠償金で「自由」号に乗ったのだという。

私はアメリカを肌で全く知らないけれど、本作によればルースの出演番組の人気が絶頂期の折にエイズが社会問題となり、「彼女はHIVエイズに対する偏見をなくすために活動した先駆者となった」。疎開先のスイスで二級市民扱いされていたルースは「人間以下の扱いをされている人がいるのに我慢できない」「特定のグループを罵倒するのは時間の無駄でしかない、大切なのは知ることと対処すること」と言う。この辺りは春に同じ新宿ピカデリーで見た「氷上の王、ジョン・カリー」に繋がった。

映画はルースの90歳の誕生日に終わるが、大勢から花束をもらいご馳走を用意される彼女は、監督やカメラマン、数歩一緒になる案内人にまで「ちゃんと食べた?」と聞く。自分だけ特別であることに我慢できない、そういう人なのだ(しかし元より、このドキュメンタリーは彼女が音声さんにクッキーを勧めるのに始まるのだった)。疎開先のスイスでの少女時代には「鍵付きの日記帳」にすら本当のことを書かなかった彼女なのだから、カメラに向って話す、あるいは話さないということに私には窺い知れない意味があるんだと思う。

「大人同士が合意の上で寝室で…いや居間でも台所でも…やることは何だって大丈夫」

週末の記録


寺田倉庫で開催中の「スター・ウォーズ アイデンティティーズ:ザ・エキシビジョン」へ。うちら向きのイベントじゃなかったけれど、モノレールやバスにも乗れたし、夏休み最後の週末ぽくて楽しかった。
写真の右は、カリフォルニアのランドのSWエリアのオープン日が私の誕生日だったので撮った一枚。


土曜日の晩は、済州島スターバックスで買った海女さんグラスでスイカジュースのソーダ割り。この日のメニューは同居人作のピーマンのプルコギ詰め、茗荷と九条ねぎの卵とじ、東門市場で購入したごま油を使ったナムルなど。
日曜日は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ア・ハリウッド」を見た帰りにイタリア料理にしようかと学生時代に行っていたお店に寄るも閉まっていたので、近所の食堂へ。ちなみに映画の方は、私は映画という手段が好きなだけで興味があるというわけじゃないんだなと思い知らされた。