国立科学博物館にて開催中の大哺乳類展2へ。同居人は前回開催時にショップで買ったTシャツを着て行ったんだけど、あれから8年も経つなんて早いものだ。移動運動をテーマにした展示は楽しく、私が子どもなら帰りにゴリラのナックルウォーキングを試してみているところ(笑)
帰りに松坂屋上野店の「ハッピーパンダフルデイズ」フェアを見て回って、北辰鮨のパンダ手巻き(中味はまぐろとイクラ)と金谷ホテルベーカリーの親子パンダパン(中味はチョコクリーム)を購入。どちらも美味しかった。
ウェスタン
EUフィルムデーズ2019にて観賞。2017年ドイツ、ブルガリア、オーストリア/ヴァレスカ・グリーゼバッハ監督作品。
オープニング、緑のプラスチックバッグに仕事仲間の分の食べ物(と字幕にはあったがお弁当かお惣菜)をぶらさげて戻ってくるマインハルド(マインハルド・ノイマン)と、建物の入口にたむろする男達。次の場面では彼も彼らに次いでドイツからブルガリアの山間の村へ働きに出ている。工事現場のボスであるヴィンセント(ラインハルド・ヴェトレク)に「賢いやつだな」と言われ「稼ぎに来ただけだ」と答えるところでタイトル「Western」が出るが、この時には何のことだか分からない。
暑い最中に川での涼み中、向こう岸に現れた村の女にヴィンセントが嫌がらせをするのをそろそろ止めに入るべきかと立ち上がる、後に新入りの若者がやはり少女に嫌がらせするのには水をぶっかけるマインハルドだが、近くで出会った馬には「おれが行きたいのはあっちじゃなくこっちだ」と指示し「お前はおれに逆らえない」と鬣を掴んで(まさに)馬乗りになる。馬は「獣」だし女と違って父親もいないから。彼らとマインハルドとは別物(者と書くべきか?)ではなく同じ物のいわば端と端なのだと思う。彼がヴィンセントの目を付けている女に接する時、ボスのことが気に入らないからという気持ちが根にないようには見えない。
しかし大事なのはそれ、すなわち個人としてどこに居るかという話である、おそらく。そう考えた時、始めのうち見ながら疑問に思っていた、この映画には「お上」が存在しないが彼らは何の元で動いているのか、動かされているのか、ということはこの映画では意味がないのだと分かってくる。アドリアン(シュレイマン・アリロフ・レフィトフ)が「君は色んなところへ行ったんだろう、国じゃなく地球の話をしてくれ」と口にするとマインハルドが「地球はまるで動物のようだ、強いものが勝つ」と返すのもそれに繋がっているのだろう。簡易な言葉を選んで二人がやりとりする場面の数々には奇妙な広がりを感じた。
平日の記録
誕生日は恒例のディズニーシーへ。水場の不具合とかでゴンドラの運転が中止されていたのが夕方には乗れて嬉しかった。下船時にお祝いの歌を歌ってもらう。写真はちょっとしぶいけどいかにもシーらしい場所にて。
ランチはこれまた恒例のS.S.コロンビア・ダイニングルームにて。イースターのスペシャルセットにベリーのミルフィーユ仕立てとチョコレートケーキの誕生日仕様プレート。二時間ほどのんびり。
ディナーは木場のアタゴールへ。ガスパチョやトリュフの冷製スープなどの合間に小さいものとはいえパンを昼の分と合わせて10個くらい食べてしまい、写真の甘鯛やメインの仔牛が出てくる頃にはお腹いっぱいに。デザートはザッハトルテにピスタチオのアイスとチョコレートのアイス、ベジタブル&サボンカービング添え。なかなかお目に掛かれない重々しさが嬉しい。
パリ、嘘つきな恋
この映画が面白いのは人々のやりとりに忌憚がないことによって成立しているところ。お国柄などと言うものではなく監督・脚本・主演のフランク・デュボスクのキャラクターだろう。これは自分の想像が及ばない領域において各人がいわば発揮する性質だから、「障害」というテーマによく合う。
いい歳をしたジョスラン(デュボスク)が20台の女性を「落と」そうとする気味悪さが彼の「スケートはきびしいな」へのジュリー(キャロライン・アングラード)の「若い人ばかりで行くから」で一応いなされるのに始まり、親友マックス(ジェラール・ダルモン)の「女として見てやらないなんて」、当のフロランス(アレクサンドラ・ラミー)の「女として見てくれる」等々性的に見られることが善であるという価値観も、ジュリーが「胸のことに気付かれなかったら却ってショック」の前に「あなたは私の胸を見ている」とはっきり言うことができる世界だからと何とか見過ごしてやることができる。
冒頭マックスとのやりとりで「セックスは無しかな」と言っていることから、ジョスランが求めているものはまさに「挑戦」であり女を「落とす」のは挿入行為のためではないと分かる。これはその向かうところが誰も傷つけず幸福な方に修正されるまでの話とも言える。腹蔵ない会話が物語を支えているがゆえ邦題にある「嘘つき」にも日本のそれとは異なる意味合いがあるはずだけども、冒頭ジュリーの脚に魅了された彼は自身の真実、地位と金を持っていることを明かす(が妹も姉も彼がヨーロッパのトップを務める会社を知らない)。「自分じゃない人物を演じる方がやりがいがある」なんて言いながら、彼の嘘なんて所詮そんなものなのだ。
この映画の実にシンプルな楽しさとして、アレクサンドラ・ラミー演じるフロランスの魅力がある。彼女に恋しない人間がいるだろうかというくらいの、言うなれば「文句ない美女」。出会いの瞬間、ジョスランが恋におちたと観客には分かるが彼には分からない。初めて二人で並んで話す時の彼の後ろ姿の首の皮のたるみ、しょぼい服、母親の車椅子、作中初めて老いて、すなわち年齢のままに見える。女の方の彼女は老いなど見せない、せいぜいが美しい老眼鏡姿だが、それでもまあ、年を取ることも自分自身なのだという映画ではある。
週末に「パリの家族たち」「パリ、嘘つきな恋」を見ての感想として、フランス人にとってアジア人とは見えている中で最も遠い存在なんだろうかというものもある。後者の広告のくだりには「バカ単純なやつ」という自虐が含まれているのか、そんな感じは受けなかったけれども。
コレット
最後に「さすらいの女」の「今は幸せを求めている」という一文がコレット(キーラ・ナイトレイ)の声で語られる。かつてミッシー(デニース・ゴフ)に「幸せな人なんている?」と返した彼女はもういない。コレットは自分で自分を真に舞台に立たせ、その名を皆に呼ばれる。晩年の本人の写真と共に「いい人生だ、もっと早く気付けばよかった」との言葉が紹介され映画が終わる。彼女が「気付く」までを映画化したのは、自分の人生を生きている姿よりもそれを取り戻す行為に焦点を当てた方がエンパワメントになるとしたのだろう。
オープニング、眠っているガブリエル(ナイトレイ)を起こしに来た母シド(フィオナ・ショウ)が「今日はウィリーが来る」と告げる表情が何とも微妙で、引っかかったまま見始める。「妻を演じたことはあっても母を演じたことはない」と言っていた彼女はそのずっと後年、キッチンでナイフを手に「早く別れなさい、彼はあなたの足を引っ張っている」と娘を諭す。娘の自分らしさを守り伸ばすことが自らの務めであること、どんな相手であろうと女は結婚したら自分らしさを失うおそれがあることを意識していたのだ。
本作ではコレットと夫ウィリー(ドミニク・ウェスト)の間のあれこれは史実からかなり変更されている。加えてミッシーいわくの「長くても手綱は手綱」だろうと、「校長」として妻を支配下に置く夫は魅力ある人物として描かれている(現代に生きる私からしたら一日で勘弁、だけれども)。それはひとえに、一緒にいて楽しかろうと才能を開花させてくれようと勿論自分を愛していようと、自分が自分らしくいられない相手とは関係を絶つべきだと訴えたいがためだと思われる。
冒頭から「『ラ・トスカ』はサラ・ベルナールはいいが感傷的すぎる」、ガブリエルの書いた「学校のクローディーヌ」に「女らしすぎる」と感想を述べ「男性読者が喜ぶ」よう手を加え、世に出してみれば「若い女性に売れている」と聞き驚くウィリーは、女に感情があること、それを共有する楽しさ、素晴らしさを知らない。だからコレットの書いた作品が夫の名前で出版されている問題につき、自ら「爆弾」と言っておきながらそれに火をつけるのが彼女自身だとはよもや考えないのだ。「あなたのために努力した自分を恥じる」と爆発したコレットの続くセリフで、ミッシーが「クローディーヌ」を誰が書いたか見抜いた理由、秘書がノートを燃やさなかった理由が分かる。それが彼女自身だからだ。