平日の記録


老舗の喫茶店のスコーン。
渋谷のParis COFFEEにて初めてスコーンを頼んでみたら、縦に切られてきてびっくりした。生クリームを塗りやすかった(笑)
カンタベリカフェでもスコーンとコーヒー。ここのはお上品。


昔ながらのプリン。
新宿西口を通りすがりについ買った、ヒロタの北海道生クリームシューと贅沢プリン。シュークリーム屋さん?だけどプリンの方がいい。
阪急メンズ東京のネオ喫茶キングでは「平飼い卵の濃厚プリン」。お店としては改装前のモノクルカフェの方が好きだけど、プリンは美味しかった。

リヴァプール、最後の恋


元よりグロリア・グレアムに似ているアネット・ベニングの演技があらゆる意味で完璧で、全てのセリフでもって常にジェイミー・ベル演じるピーターを誘惑しているんだけれども不自然じゃなく、こういう人っているかも、私もそうなるかも、よくある恋物語だと身近に感じさせる。それを受けるジェイミー・ベルにはこれこそ真の「助演」だと思わせられた。彼の母に「リトル・ダンサー」でコーチだったジュリー・ウォルターズ、ベニングの母にヴァネッサ・レッドグレイヴという最強の布陣。

冒頭グロリア(ベニング)に「あなたは役者でしょう」と言われ「そう、ふりをしてるんだ」と返すピーター(ベル)が数年後に舞台で演じているのは「看護師」だが、ふりであって実際は違うから「ぼくら(家族)は素人だから彼女の世話ができない」というのが面白い。一方のグロリアは自身が主役の舞台「レイン」について「セックスに罪に救済、いつものグロリア・グレアムの役」と軽口を叩く。

語り手(のようには描かれないがこの映画が依っている著書の作者)であるピーターはこの物語のクライマックスを、邪険にされた自身に「舞台じゃないんだぞ」と叫ばれながらもグレアムが演技で彼を騙すところに置いている。真実がどうであろうと彼女はまず女優だったと言っているわけだ。更に彼が「ロミオとジュリエット」の1幕5場、「手に許される行為を唇にも」から「二人にとって愛は無限」までの共演を彼女への最後の贈り物にすることから、これは恋とはこんなに素晴らしいのだと観客に訴えている映画であると分かる。

出会いのロンドンから海を望むカリフォルニアのトレイラーハウス、クライスラービルを望むマンハッタンのアパートと落ち着かなかったグロリアが、最後には時にカモメの、時に子どもの、時に激しい雨の音が聞こえるリヴァプールの何の変哲も無い家のベッドに潜り込む。妙な言い方だけれども、彼女は健全すぎて居場所がないようにも見えた。健全というのはこの場合、これまた変な言い方だけれども、世の中が真に平等である時「セクシー女優」はこう生き長らえるのではないかと思わせるという意味である(尤もまだ50代だし、実際にはそれ以上生きた人が多いんだろうけども/真に平等な世において「セクシー女優」が存在するのかというのはさておき)。

ピーターの母ベラは「スターの美貌は永遠」と口にするが、あながち間違いでもない。人は記憶も動員してものを見るのだから。スターがセクシーに輝いている映画を当の本人の隣で見た後に愛し合う時、もしも私がそうした体験をするなら、そこに何を見るだろうか。俗っぽいことを言うようだけど…って、このように陳腐にも思われることを体に染み渡らせる映画というのがある、これはこれで素晴らしいものだ。

週末の記録


練馬区立美術館にて美術講座「こま撮りアニメーションの作り方」。人形アニメこまねこ」などを手掛ける監督とアニメーターの方の話を聞くもので、ソフトを使ってのこま撮りの実演(「まばたき」や「駆け足」など)も楽しかったけれど、面白かったのは「監督」「アニメーター」という仕事についての話。例えばこまねこは腕が短いので「机を押す」ことができないが(腕より頭の方が長さがあるため鼻で押す形になってしまうそう・笑)、制限のある中でその動作を表現してみせるのがアニメーターの仕事だとか。
写真は期間限定で美術館のロビーに展示してあった「こまねこ」のキャラクター。それぞれ二体あるんだそう。

平日&週末の記録


週の半ば、花見休暇で上野公園へ。同居人が作ってくれたお弁当、自身が糖質制限中なのでお米にマンナンと麦を混ぜて炊いたらキンパのつもりが巻くに巻けなくなったんだそう(だからラップにくるんだまま食べた)。でも美味しかった。
帰りに所用でヒカリエに寄った際、お腹が空いたんじゃと言われシンクス内のジョエル・ロブションで苺のパンをこんなに買ってもらった(笑)どれも上品な味。


日曜日のお昼は桜台のさくら祭り。千川通りの桜並木はそれこそ上京時から知っていたけれど、この催しは初めて。桜がきれいなのに加えて地元の商店街による屋台の顔ぶれがとても楽しかった。写真は焼きそばスコッチエッグビリヤニ、どちらも美味。


日曜日の夜はとしまえんのお花見宴会。今まで昼の部ばかりだったのが、これも初めて夜の部に行ってみた。こたつに入りながら肉を焼いて食べる。風のせいか火が大きくなりびっくりしたけど(笑)そのおかげか花びらに恵まれてよかった。

ブラック・クランズマン


この映画は「映画が影響を与えない、などということはあり得ない」と訴えているのだから、見ている間は幾らか笑ったり快哉を叫んだりすることが出来ようとも家に持って帰るのはこれだ、と最後に喉に岩を突っ込まれるのが当然なのだ。クライマックスでは作中のハリー・ベラフォンテが覗き見たのと同じものを何十年も後に主人公ロン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)が窓から覗き見、更に何十年後かの私達がそれをスクリーンの中に見ているという構造が明かされる。映画の中では登場人物が起きられなかった、起きろ、起きた、とやっていたが最終的には私達が起きなきゃ意味がないのだ。

心に残るのはロンとパトリス(ローラ・ハリアー)の会話で露わになる二人の間のずれ。「今の黒人映画はファンタジー」「パム・グリアは嫌い?」「『コフィー』はうそ、現実は警察が黒人を殺してる」「タマラ・ドブソンは?」「黒人のイメージを悪くしてる」「たかが映画じゃないか」。「活動なんかして何か変わるのか」「あなたはなぜ警官なんかやってるの」「警察を中から変えるんだ」。特に後者のずれは最後まで解消されないが、それでも彼らが揃って銃を構えるのに映画は終わる。抑圧されている者達の中で更なる属性の違いによって亀裂ができそうになるという問題は「ビール・ストリートの恋人たち」にも描かれていたが、あちらは愛で、スパイク・リーは力づくでその亀裂を埋める。埋めなきゃならないから。

パトリスが警官に暴力を振るわれたことを語る背景に「Too Late to Turn Back Now」が流れているの(からのあのダンスシーン)に、このセンスは当事者にしかない、いや使えないものだと思った。ああいう目に遭っている彼女が「コフィー」は好きじゃないと言う、「警官が皆ああじゃない」と言われても「一人いれば嫌いになるには十分」と返す、その気持ちはよく分かる。でもロンのように自身が警察になる者も必要なのだ。見ながらずっと昔に「キャノンボール2」を見た時ふと疑問が生じてフェミニズム(なんて言葉は知らなかったけれども)の種が心に撒かれたことを思い出した。警察がどんな組織であろうと、自分が警察になる、あるいは女の警官が増えることには意味があるんじゃないかと(ここでの「警察」とはどんな形であれ何らかの力を持つ存在ということ)。

フリップ(アダム・ドライバー)は潜入捜査も佳境に入ってから「これまで自分をユダヤ人と意識したことはなかったが今は毎日意識している」と口にする。捜査開始時に同僚ジミー(マイケル・ブシェミ)の「ネックレスは外したらどうだ」に「これはダビデの星だ」と返してそのまま出ていくのは、こだわりが強かったのではなく自分を差別する者がいると実感していなかったのだと推測される。フェリックスの「ユダ公か?」に「侮辱するな」と返す場面でその顔が初めて大写しになるのは、あの時に彼が目覚めたからである。同様に「ホロコーストはなかった」に「あれは素晴らしい」といわば逃げるのには、抑圧を受ける者こそ抑圧する者のやりそうなこと、更にそれを上回ることを知っている、装えるのだと思った。私達はそれをうまく使わなきゃ、あるいは使われた時には気付かなきゃならない。

ビリーブ 未来への大逆転


冒頭、「ハーバードマン」の中に入ることを許されたルース・ベイダー・ギンズバーグフェリシティ・ジョーンズ)ら女達は、「彼女達のため」に開かれた歓迎会で「男の席を奪ってまで入学した理由」を問われその内容をジャッジされる。主催の学部長グリスウォルド(サム・ウォーターストン)に「それはいい理由じゃない」と遮られた女性の次にルースが「よい妻になるため」と言う、いや言ってやると女達の間に笑いが起きる(特に先の彼女が大きく笑う)。こうした描写が面白い。
キャプテン・マーベル」同様、ここにも「女は笑顔でいろ」という抑圧があるが、こちらでの意味はまた複雑で、「皆は君が笑った方がいいと思うだろうから笑った方がいいよ」と言う、お前がその「皆」を作っているんである、悪気はなかろうと。この映画を締める言葉を聞いてほしい…「女には何も望まない、女の足を引っ張る男にやめろと言いたい」。

これが先例主義との闘争の話であることは早々に分かるが、ルースが夫マーティン(アーミー・ハマー)の就職に伴い大学の移籍を希望するのにその主義に倣って他の学生の例を挙げても、学部長はハーバードの権威を守るためとすげなく拒否する。所詮はそんなもの、全ては強者の目的…例えば「女を家庭に閉じ込めておく」ためにいいように使っているだけなのだ。
マーティンの「法は決して完成しない」との言を引き出した教授の「法は天気に左右されなくても人の変化には左右される」、ルースもそうと頭で分かってはいるが、娘の行動に初めて、その「人」が隣にいたこと、自分もその「人」であることに気付く。見ている私も自分が法の変化、彼女の弁論に倣って言えば「人が変化する権利を守る」法の変化に寄与できるのだと気付く。そういう映画である。

男達の「普通なら女は家にいるものだ」という類の言葉の後にギンズバーグ家の日常が挿入されるのが繰り返されるが、夫の料理姿などより面白いのは、子どもが父親の方に懐いており母親には反抗的なのを父が諭すという描写。男女逆なら見飽きているほどよくあるものだ。その娘ジェーンが終盤に放つ「ママは料理しない」もいい、状況によって何が誇りとなるかは異なるということだ。考えることをしない人は一律にしておきたがるけれども。
タイプライターの両側に夫婦それぞれのファイルが置いてある画がいいなと思っていたら、平等を表しているのかその後も時折左右対称の画が表れる。夜の窓を背景に夫婦がデスクで仕事する図には、子どもの頃の両親を思い出した。

週末の記録


新所沢に出掛けた際にパルコで開催されていたマルシェで見つけた可愛いドーナツ、苺と桜。いわゆる優しい味だった。
帰りに喫茶店東京堂」でチーズケーキとコーヒー。コーヒー、とても美味しかった。
西武鉄道のコンビニ・トモニーで買ったわらびかつ風ランチパックは、新型特急ラビューの運行開始記念商品。メンチカツのような感じだった。