幸せのアレンジ


イスラーム映画祭4にて観賞。2007年アメリカ、ダイアン・クレスポ、ステファン・シェイファー監督作。

映画は「実験室」ニューヨークの小学校の教員研修に始まる。これだけでも珍しいのにその内容が多人種対応というのが面白い。ムスリマのナシーラが自らの意思で着けていると表明したヒジャブにつき校長が「慎みを表すものなのにきれいだから目立ってしまうわね」と頓珍漢なことを言うのが気になっていたら、かつて女性運動家であった彼女はナシーラと正統派ユダヤ教徒のラヘルに対し自身の「自由」を押し付けてくるのだった。

尤も制作から12年経った今現在、この映画自体にこの校長のような要素が感じられるのも面白い。見合いを押しつけてくる両親やコミュニティについてのナシーラとラヘルの「父さんの血圧が心配だって母さんが言うの」「それは母親の常套手段よ」「私達も言うようになるのかな」「こんな緊急時にはね」なんてやりとり等に、ある枠からは出ない限りの物語であることが表れている。

ただしこの映画が訴えたいのは、おそらくラストシーンの「思い通りに変えればいい」であろう。ナシーラとラヘルがそれぞれの夫について喋っているのだが(このセンスも古いのだが)、これは中盤年配の女性の「女が完璧な男を望むのは当たり前(だけどそんな人はいないから皆あきらめている)でしょう」を受けている。何につけもう「あきらめる」必要はないと言いたいのだ。

とりわけ小学校では、教員同士の仲がいい、いやよくはなくとも協力し合っていることが子どもにとって重要なので、子どもが先生同士の仲に言及するという発端は面白い。またここで彼らが口々に言うのは全て大人の受け売り。子どもが学校に持ち込んでくるのは社会である。

ナイジェリアのスーダンさん


イスラーム映画祭4にて観賞。2018年インド、ザカリヤ監督作。

映画が始まるとながーいクレジットや謝辞をバックにサッカーの試合周りのあれこれの音声が流れる。後に主人公マジードが「こんなに泥臭い(原語ではどんなニュアンスなんだろう、この上映の日本語字幕はとてもよかった)実況やファンのいるサッカーはワールドカップにはない」と冗談まじりにも誇らしげに言う、それらの声である。

冒頭から7人制サッカーチームMYCの面々が「同じ釜の飯を食う」日々の様子が軽快に描かれるが、次第にマジードが義理の父を無視するばかりじゃない、サッカー以外には立ち止まったり考えたりすることを全くしないのが浮き彫りになってくる。質屋での「おれにも支えてくれる嫁さんがいたらなあ」は誰かを支えることをまだ知らない彼の生き方を表しているように思われた。

ナイジェリアからやってきたサミュエルは「スーダンさん」と呼ばれ選手として活躍するが、怪我で安静を余儀なくされる。この時点で、何らかの理由があって(端的に言って「役に立つ」という理由で)居場所を得た外国人がその役どころを失っても居続けられるのか、できるに決まってると私は思うけど、それに纏わる問題を描いているのかと思いきや、ちょっと違うのだった。「サッカーが好きじゃないやつなんていない」かもしれない、でもサッカー好きなやつの背景は本当に色々なんだという話だった。マジードや「スーダンさん」の普通っぽさがとても効いていた。

祝日の記録


よく晴れた春分の日、カナルカフェのいつもならテラス席のところを屋内のブティックのカフェに入ってみる。オレンジとアールグレイのタルトにコーヒー。心地よくて長居してしまった。
東京に開花宣言が出たこの日、飯田橋から電車に乗るのにふと見たら、お堀沿いの桜が一本咲いていた。

わたしはヌジューム、10歳で離婚した


イスラーム映画祭4にて観賞。2015年イエメン=UAE=フランス、ハディージャ・アル=サラーミー監督作。

上映前に流れた観客へのメッセージで監督が「子どもが彼らを見くびっている大人に対し若さを武器に抵抗する姿を描きたかった」と言っていたので、オープニングタイトルに星が散りばめられるのにいわゆる子どもらしさを表しているのかと思いながら見ていたんだけれど、次第にその星の意味するところ…名前の事情や識字の問題が分かってきて涙があふれてしまった。

始まるや、女性はあそこにお金をしまうのか、タクシーはああして呼ぶのか、裁判所ではジャンビーヤを預けるのかなどイエメンの興味深い風習が立て続けに映し出されて刺激を受けるが、一番は、母親の「名前は星(ヌジューム)にしましょう」に「いや、隠された(ノジュオド)にするべきだ」と反対する…にも関わらず数年後には娘を慈しむように肩車して歩く父親の姿。彼らはそうなのだと思っても混乱した。後にそれこそ目を背けてはいけない要素なのだと分かる。

この映画が描くのは、少女ヌジュームの古い世界から新しい世界への必死の逃亡である。「黒い絨毯」の先の都会では男性が「女は物ではない、金では買えない」と歌い、成熟した女性が(実際にはどうであれ)少女には憧れの対象であるドレスで結婚に臨む。児童婚によりさらわれた先ではそうした都会どころか一切の外との繋がりが断たれ、洗浄場なんていう内に閉じこもるしかなくなる。そこからの逃亡は、映画が彼女に与えた翼、見る者に知恵と勇気と希望を与える翼と言ってもいい。元となった本の「わたしはノジュオド(隠された)、10歳で離婚」というタイトルを映画化の際に「わたしはヌジューム(星)、10歳で離婚した」にしたところに監督の気持ちが表れている。

主題は女を物扱いする男、すなわち被告席に立つ二人の男の糾弾である。作中では彼らの「ヌジューム(を始めとする女達)を心配するがそれは自らの名誉のためである」という姿が執拗に描かれる。少女が語った出来事の裏で何が起きていたのか明かされる作りが映画としても面白いが、知ったところで判事の「辛さは分かるが娘にしたことは許されない」に尽きる。法廷にヌジュームと弁護士の女性以外に男しかいないのは、これがまず誰の問題であるかの表れである(日本でも最近ようやく言われるようになってきたことだ)。勿論「知は力」とは全ての人にとってだが。

パキスタンの「娘よ」にトルコの「裸足の季節」、ジョージアの「デデの愛」など(これらは全て女性監督の作品だ)、美しい自然や人工物に一瞬うっとりしても、望まぬ結婚が描かれていると私にはもう美しさを感じる気持ちが湧いてこない。本作も同様だった。監督が「子どもは一生消えない傷を負わされる」と言っていたけれど、ヌジュームが判事の娘の弾くピアノの音色に自身が受けた暴力を思い出すのだってそういうことだろう。ここにセックスはない、レイプだけだ。世界にはセックスをしたことがない…それだけならば幸せで、セックスではなくレイプの体験しかない女性がたくさんいるのだと思う。

気乗りのしない革命家/イエメン:子どもたちと戦争

イスラーム映画祭4にて、セットで上映されている二作を観賞。


▼「気乗りのしない革命家」(2012年イギリス/ショーン・マカリスター監督)は道にばらまれた石に「ファックオフ、タリバン!」とののしり声をあげる男性に始まる。彼はイギリス人ジャーナリストである監督が雇ったイエメン人ガイドのカイス。構えたばかりのホテルが「アラブの春」の余波を受け経営難に陥り、今は「東欧からの無謀な観光客相手に生計を立てている」。

弟いわく「大統領は33年寝たままだけど兄もそう、そろそろ起きなきゃ」。親大統領派のカイスは「このままでは血が流れるどころか血のプールができる」「大統領は話し合いを望んでいる」と構えているが、変革の広場を訪れるうち心境に変化が起きる。このドキュメンタリーの素晴らしいのはまず反政府デモをする人々を捉えた映像。若者の革命だということ、男女でしっかり分かれてはいるが女達も堂々と活動していることが分かる。カイスは次第に「政府はこちらを恐れている」と革命側に感情移入し始め、国による殺人を目撃した後には「背中を押してくれてありがとう」と口にする。

カイスが「この金曜日に何かが起こる」と言う前夜、監督は自身の息子と話をする。少年(というにもまだ幼い)いわく「することがない人はそこにいちゃだめだ」。翌日、監督は記者として出向き映像を撮り人々の声を聞く。当初「君は変革の広場の初めてのツーリストだ」と言っていた、すなわち観光客相手に仕事をしていると考えていたカイスが、その時にはジャーナリストにメッセージを託す現地の人間となっていた。


▼「気乗りのしない革命家」の終盤、墓地で男性が「イエメンには死ぬ運命の子どももいる」と話していたが、その子ども達に焦点を当てて制作されたのが「イエメン:子どもたちと戦争」(2018年フランス/ハディージャ・アル=サラーミー監督)。「私のイエメンは破壊された」との女性監督のナレーションとその光景に始まる。

彼女が知り合った三人の子が人々にインタビューを行う。相手は祖母に始まり画家、風刺作家、ラッパーと様々で、最後に病院と難民キャンプを訪れる。彼らが撮影した動画も挿入されるが、基本的には監督がインタビューのお膳立てから撮影までを行う形で、按排が丁度いい。合間の芝居も効いており、「Miss War」(とは他者が彼女につけた名だが)の「演出を施した写真」に通じるような気もした。

三人のうち長男は空爆が始まって3ヶ月学校を休んでいる間に勉学が遅れたこともあり、家の中で銃を手に暴れてばかりいたのが、作中では銃を手離すようになってきた。インタビューにはそうした作用もあったのだと思う。訪ねた先の画家の女性に「イエメンの男は山を切り開いて文明を作ってきたのだから銃は離しなさい」と言われもしていた。

平日の記録


渋谷にしかないちょっとしたもの。
モロゾフ東横のれん街店限定のプリンロールケーキはスポンジケーキ、カスタードクリーム、カラメルゼリーに生クリームという全部乗せスイーツ。懐かしめの味わい。
VELUDO COFFEE-KANという名の渋谷にしかない珈琲館ではトラディショナル・ホットケーキ。カウンターのすぐ向こうの鉄板で焼いてくれる。通常の店舗より一回り小さいのがおやつとしてありがたい。


これもちょっとしたご当地パン。
高田馬場での空き時間に入ったデリフランスで店舗限定の馬場あんぱん。生クリーム入りで食べやすい。
フードショーのアンデルセンではハチ公あんぱん。こちらは私の苦手な白玉入りで困った(笑)

キャプテン・マーベル


(以下少々「ネタバレ」あり)

映画はヴァース(ブリー・ラーソン)と彼女に「疑念、感情、ユーモア」を持つことを禁じる司令官ヨン・ロッグ(ジュード・ロウ)に始まる。女が自分よりも下にいる限りは有効に使ってやろうというこの男、最後に手を差し出されて自らも伸ばす姿に「仲直り」して「元に戻る」ことが出来ると考えているのが透けて見え、何て呑気な恥知らずだと思う。尤も冒頭の二人の様子には確かに楽しさも感じられ、結末を踏まえても、彼の方こそ彼女によって幾らかのいわば遊びを与えられていた、救われていたのではないかと考えた。
それと対照的なのが初対面時から諧謔あふれるやりとりを交わすキャロル・ダンヴァース(ラーソン)とフューリー(サミュエル・L・ジャクソン)。部下のコールソン(クラーク・グレッグ)について「命令より直感を信じた、それが人間らしさだ」と話す彼は、勿論!彼女に対してもそれを適用する。コックピットにあふれる笑い。

この映画で素晴らしいのはラーソン演じる主人公の顔である。これまでなら女のこんな顔、ましてやスクリーンでなんてと封じられていた「普通」の表情ががんがん見られる。まず楽しいのは逆さ吊りに始まるスクラル人との一戦で、声で威嚇されれば威嚇し返す、邪魔な物が取れれば歓喜する、昔の漫画なら「ふんがー」とセリフにありそうで全てが最高に楽しい(まあベン・メンデルソーン演じるタロスが言うように「二十人を倒し(殺し)」ているわけだけども)。
地球に落ちてきてほどなく中年男性に「Smile for me」と言われるくだりは本作の最重要シーンである。てめえに見せるための顔じゃない、奪い返して走り出せ。

それにしてもアメリカ人はパイロットというか空軍が好きだよなあと思いながら見ていたら(イアハートのコスプレからも分かるように、女にとって空を飛ぶことにはそれ以上の意味があるわけだけども)、仲間のマリアが「あなたは人命が救えるならと出て行った、あの時にヒーローになった」とヒーローの何たるかを教えてくれる。彼女のこの映画での補助線ぶりはあまりに強力で、時に笑ってしまうほどだ。
「人類のオス、危険度ゼロ」と判定されたフューリーがマリアの方を見て「壊れてるんじゃないか?」と言うところでふと、そういやこの二人は同じ「人種」だと気付く。種類が増えれば増えるほど、誰が何でもどうでもよくなる。やっぱりそういうのがいい。